■ 連星

 アイネイアースという惑星丸ごとが宇宙の経済を統べるGOTTの機関として機能している趣はあれど、眠りの気配の濃く漂う冷えた深夜の時間帯とあっては、このアンキセス中央宇宙港も昼間の混雑と喧騒を忘れたように静かになる。
 歯の抜けた櫛のような間隔で、時折、軌道エレベータへと発進するガントリーの加速音が暗い夜空に遠く響くだけだ。
 アイネイアースに月は無い。空港特有の仰ぎ見上げる広大な天の、夜の闇を照らす光はそこに無い。
 ただ人工の照明のみが夜の宇宙港の平坦な敷地を薄く照らし、その明かりも通常夜間には使用される事のない宇宙艦繋留庫スペースシップドックの並ぶ辺りでは数を減らす。
 軌道ウイングの背後、宇宙港の整備エリアの嫌と言うほど無機質に広大な敷地を横切って、噛み締めるようにゆっくりと歩みを進めるシニストラの目にも、だからかなり間近まで近づかなければ自分達の機体が収められているドックのシャッターが僅かに開いているかどうかは解らない。
 ……解る必要など無い。何よりも自分が一番承知していることなのに。
 それでもドックの中の更なる闇へと、薄く口を開くほんの少しの隙間を見た瞬間。
 心の中を、氷塊が滑り落ちた。

 どうして。何故。
 何故あなたは、と。
 訊く必要のない愚問が、性懲りも無く胸の中で譫言のように繰り返される。

 身を屈めてシャッターの奥に入った瞬間、暗闇に目が慣れるよりも先につんとした臭いがシニストラの鼻を突いた。思わず眉根を寄せるが、目が慣れるまでは動こうにも動けないほどの漆黒の闇だ。
 シャッターを越えた位置のまま、視界の暗順応を待つ。傍から見れば、立ち尽くして動けないままでいる姿に見えたかもしれない。

 ひとの気配。一点の赤い火。
 凍りついた空気。

 ……闇の中からじわりと染み出してきた、紅い髪。

 心臓が、ずくりと疼いた。

 流線型の機体の翼に背中を預ける立ち姿へ、シニストラは震えそうになる足を動かして近づいた。滑らかな動きの自身の歩みの、躊躇いを表面に出さずに済んだことに対して小さく安心する。
 進む先の姿は身じろぎすらする様子も見せない。
「煙草は止めてくださいと、あれほど何度も言ったでしょうに」
 毎回この時期にだけ彼が手をつける悪癖を嗜めながら、ふと目を遣ったパートナーの足元に積もる吸殻の数に、もう一度氷を飲み込んだような気分が自身を襲う。
 何時間、彼はこうしてここにいたのだろうか。いや、それよりも……何晩?
 昼間の間は普段と変わりなく、…そう、当事者達以外の傍目には普段と何ら変わりなく、淡々と本局での仕事をこなすデクステラ。
 自分だけに見せてくれる彼のその笑顔が、次第にぎこちなくなり、逸らされ、そしてとうとう消えたのは何日前のことだったろうか。今回で……もう何度目になるのだろうか?
 激しい眩暈がして思わず揺れた身体を、煙草を投げ捨てた手が鞭のように鋭く延びてきて捕らえた。
 次の瞬間に来るものを知っているシニストラは、強く目を瞑って心を強張らせた。

 予想通りの、強引な動きに唇を深く塞がれる。

 崩れ落ちそうになる足の、震えを今度は止めることが出来なかった。
 身体の中から湧き上がり、熱を持って蠢くものを必死で否定する。
 意識の中で無理矢理に引き伸ばされたような時間が長く続いた。

 粘着質な音がドックの中に響いた時、けれどシニストラは反射的に相手の身体を強く押し返した。
 身体は離れるが、腕はまだ力強い腕に捕らえられている。

「……まだ早過ぎますよ。あなただって判っているでしょう?」

 目を逸らしてことさら冷たく言い放つ。
 唇に残る痺れは、自分に対する当て付けのようにわざわざ強い銘柄を選んでいたパートナーの煙草の所為だと思いたい。
 無言の数瞬を長く重ねたデクステラは、やがてゆるりとシニストラの腕を放した。
「もう、充分待った」
 背を向けてセンチュリオンの入艦デッキへ向かいながら、そう呟いたデクステラの低い低い声はドッグの高い天井に小さく響き、シニストラの背筋を再び凍らせる羽目になった。
 重い足を引きずり彼の後に続くシニストラは、もう山のように積み上げて来続けた自分の罪に、デクステラの腕の震えを無視した小さなそれをもうひとつ積み上げる。
 耳を劈く大きな崩落音を立て、それが崩れゆく確実な未来を強く瞼の裏に映しながら。


「Anchises Delivery, this is UAS 0003. 5 minutes before startup end for Janus Spot 004.」
 シニストラの型通りの離陸許可申請に、アンキセス宇宙港オペレーターからの返答が遅れる。目的地の照会に時間が掛かるのだ。
 惑星ヤヌス。地標識ランドマークすら片手に少し余るほどの数しかない辺境の地の星である。
 太陽銀河系の果てとも言うべき場所で辛うじて銀河の重力圏にしがみ付くその星系と植民惑星へ、宇宙暦の開拓者達は入口と出口、過去と未来を司る双面の神の名を付した。
 地球暦のさらに古代、その神の姿を模した門は戦の時にのみ開かれたという。
「……OK, UAS 0003 clear, startup your ends and estimate clearance.」
 デクステラは無言のまま、乱暴にレバーのひとつを引いた。センチュリオンを乗せたガントリーがゆっくりと加速を始める。
 軌道エレベーターを上昇すれば、暗い宇宙空間の中に刹那、強い光が目を焼いた。
 恒星ラティウムとラティーヌス。
 ヒトを含めたアイネイアースの生態系活動のエネルギー源を一手に担い、互いの重力に縛られて僅か数十時間の公転軌道を光速の数パーセントという速度で回り続けるその連星から、シニストラは目を逸らした。


 星系-惑星ヤヌス。
 銀河中央より約8万3千光年。
 銀河水平面に対する仰角は約37度。

 ワープアウトした先の毎回のその宇宙空間には、暗黒の宇宙空間にちりばめられた無数の星という見慣れた普通の光景は無い。それは銀河系内にいるからこその光景であって、半径約5万光年の太陽銀河系からこれだけ外れた位置にあっては、周りを取り囲む星というものは存在しないのだ。
 代わりにセンチュリオンの全方位モニターに映し出されるのは、闇の全天に置き忘れられたようにまばらに残された遥か遠くのいくつかの別銀河の光と、
 ――太陽銀河系の、凝縮された2千億の光の渦を一望の元に見下ろす光景だった。

 両腕を真っ直ぐに伸ばして手のひらを差し出せば、まるでそれに乗るかのような大きさで輝く銀河の渦。


『――あれがペルセウス腕。あれが射手腕―――』


 この場所は、いつも変わらぬ光景を用意して自分たちを待っている。
 来る度ごとに、もう二度と見なくて済めば良いのにと思う光景だ。

(初めてこの場所に来たのは、もう、何年前になるのか……)

 パートナーも彼自身も押し黙ったままの、センチュリオン艦内の重苦しい空気の中、次第に麻痺してゆく思考でシニストラは考えた。
(あの時は――まだ、こんな風じゃなかった。)

 こんな風ではなかったのに。


『――あれがペルセウス腕。あれが射手腕。あれがオリオン腕―――』


 低く優しい声が耳の奥で木霊する。
 いっそ無ければ良いのにと思う過去の記憶から逃れるように、シニストラは狭いコクピットから勢い良く立ち上がって背を向けた。

 物置並みの狭い居住スペースへ移動しようとした足が、凍りついたように動かなくなったのは、いつの間にか自分の腕を痛いほどに掴んだパートナーの手の所為であると――気付いた一瞬のその遅れが、引き返しようのない運命へ自分を引きずり込んだ未来をシニストラは瞬間、鮮明に視た。

 紅い髪のパートナーはシニストラの腕を捕らえたまま、立ち上がりながら次から次へとスイッチを切っていく。
 全方位モニター。格納庫のゼフィーロスとの通信回路。センチュリオンのメインエンジン。
 唐突に全ての明かりが落ちた艦内、ツインコクピットの狭間の床に引き倒されながら、後方に僅かに開いた直視窓から漏れ入る銀河の光がシニストラの目に入った。
 けれども外界が認識できていたのはそれまでで。
 覆い被さってきた、燃えるように熱い身体と強引に唇を塞ぐ唇に全ての意識が塗りこめられた。
 手は直ぐに上着とシャツをボタンごと引き裂いて胸の奥へ侵入してくる。シニストラの身体が一気に熱くなった。
 躯の奥でずくずくと熱く重く蠕く衝動がある。
 唇を離したデクステラの視線が、焼け付くような強さで自分に向けられているのを感じる。シニストラは顔を背け、パートナーから目を逸らした。
 途端、許さないと言わんばかりにデクステラの舌がシニストラの胸を嬲った。
 反射的に逃れようとするシニストラの躯を、デクステラの手が腰の位置で強く引き寄せた。


『――あれがペルセウス腕。あれが射手腕。あれがオリオン腕―――』

 …あの優しい時は、どこへ行ったのか――。


 ……判っている。どこへも行ってなどいないのだ。

 ただ互いが、互いの抗い難い重力に囚われたが故に―――





 止め処なくシニストラの目から熱い雫が零れ落ち続ける。先程まで立て続けに上げさせられていた、苦鳴とも快楽とも判別の付けがたい涙から引き続くそれは、部屋を満たしていた狂気にも似た熱気が冷えつつある今になっても少しも終まる気配を見せなかった。
 早く泣き止まなければ、理性ではそう思うのに、冷たい床の上に横になったまま立ち上がる気力さえ沸かず、嗚咽をデクステラに聴かせないようにするのが精一杯だった。
 そのパートナーは少し離れた所に座りこんで壁に背を預け、虚ろな目をして煙草を吸っている。

 手加減無しに何度も抱かれた。
 頑なに心を閉ざすシニストラへ、堕ちろと言わんばかりに何度も、何度も。

 けれどそうして躯と心の奥底までどろどろに溶かされて、追い詰められて、とうとう決死の想いで――比喩でなく、文字通りの意味で――シニストラが伸ばした手は決して受け取られることはなく、すんでの所でパートナーにかわされるのだ。必ず。

 ――結局、最後の最後で大事に想うものが、自分の欲以上に――相手の存在であるから。
 だからこそ。

 再び溢れる涙に揺れるシニストラの視界の端に、直視窓からの太陽銀河系の姿が映った。



 初めてこの星系に来たのは、まだ二人がエストランドに所属していた頃だった。
 辺境の惑星での軽い任務。それも終わり、仲間達が談笑していた団欒の場、そこから姿を消したデクステラを探して、シニストラはひと気もまばらな未開地の林の夜道を歩いた。
 僅かに開けた小高い丘にその姿を見つけた、視線の先のデクステラは、両腕を真っ直ぐ伸ばし、手のひらを暗い空に差し出していた。

 手の先には太陽銀河系。
 時に醜く、時に素晴らしい人類の生命の全てがそこで息づく、彼が心から愛して止まないその銀河を、まるで両手で愛おしむように。

 シニストラの気配にやがて気がつき、振り返ったデクステラは――隠し事を見つかった子供のように照れ笑った。
 そうして二人並んで、木の根元に背を預けて座った。
『――あれがペルセウス腕。あれが射手腕。あれがオリオン腕――地球のあるところだ――』
 視界の先で光り輝く銀河の渦をひとつずつ指しながら、ぽつりぽつりと言葉少なにデクステラが語った。
 稀有な特殊部隊の一員、情報統括役としての任務に就くシニストラが銀河腕の名称を知らない訳もなかったが……そしてもちろん、デクステラもその程度のことは承知の上だったのだろうが――シニストラはデクステラの言葉に黙ってただ頷いていた。

 自分たちの間にある空気に気がついていた。
 いつもより少しだけ早く打つ鼓動を、僅かに上がった体温を、それが自分だけでなく、相手もそうである事を知っていた。
 投げ出された手の先で自然に触れ合っていた、その指を絡める事もしなかった。それだけで満たされていた。
 ……いずれ自然に来る時を待てば良いと、そう思っていた。



(特殊能力を持った者は、互いのパートナーに対し、必要以上に立ち入ってはならない。能力の干渉頻度が高い場合、いずれかがもう一方の能力に飲み込まれてしまう可能性が極めて高い。)



 無我夢中だったのだ。
 多くの仲間を失って、そうしてもう誰も自分たちの前で殺させたりはしないのだと、二人でそう決めて第七門研究所の門をくぐって。
 能力開発のための過酷な訓練と肉体改造に耐えて、望み通りの特殊能力を手に入れて、
 ――そこまでは無我夢中で。

 そしてもう自分たちが、二度と触れ合うことを許されなくなったのだと識ったその時、
 ……二人して、目を見合わせた。


 実際に何が起こるのかは知らなかったけれども。
 それが破滅に至る何かである事だけは理解できたから。


 耐えた。ただ耐えた。
 許されないと知った途端、焼け付く喉の渇きのように欲しくて欲しくてたまらなくて、心の底から渇望するようになった互いを。
 いっそのこと離れられたら良いのにと、あまりの苦しみと痛みにそう思いながら、けれど自分自身以上に望み愛する対象から遠ざかる事などどうしても実行できる訳がない自分たちも判っていた。
 気を緩めれば手を伸ばす。浅ましい程に望む相手の躯へ。果てしなく暗い破滅への道へ。
 そうならないように双方ともが気を張った。何が起こっているのかを全て承知しながら、びりびりと張り詰めた数ヶ月が過ぎた。
 それはまるで、互いの重力に囚われて互いの周囲を恐ろしいほどの速度で巡り、ほんの僅かにでも近づけば瞬間的に重力崩壊を起こしてあとはただ深遠の一点へ永久に吸い込まれていくだけの運命を背負った連星の姿のようだった。

 それでも――時は来た。

 GOTT本局に居る時だった。
 いつものように自分たちの私室で、張り詰めた空気に気付かない振りをする虚しい芝居を続けながら、昼過ぎの茶の準備をしている時だった。
 臨界に達していた緊縛は、ふと触れ合った指を、互いが絡め合わせた刹那に粉々の破片へと砕け散り、そうしてようやくその時になって、二人ともが涙を零して相手の躯に力の限り縋った。
 震える唇をゆっくりと重ねて、確かに心がひとつに溶け合ったと感じたその瞬間、

 ――異変を感じたデクステラは、咄嗟に能力を使った。人の居ない所へと。

 次の瞬間に二人を襲った暴力的な衝撃。研究所での半死半生の人体実験でも体験したことがないほどの。
 何が起こったか理解できないまま、再びアイネイアースのGOTTメディカルセンターへと向けてエニウェアを使ったところで、デクステラの意識は途切れた。


 デクステラは左半身を、シニストラは右半身を吹き飛ばし、立て続けに二度も緊急に能力を使ったデクステラは瀕死の重体にまで追い込まれた。
 咄嗟に能力で飛んだ先の、直径数km、全長約40km、質量が約100億トンにも及んでいた無人廃棄コロニーは、数光年の先にまで粉々になった破片を撒き散らし、残された質量の大半はシュヴァルツシルト半径が僅かに数mmのブラックホールになったと――後で聞いた。






 心を交わすことの許されない躯だけの繋がり。それすらも万が一の事を想定し、生命の気配の無い所で。
 辞められたら良いのにと思う。もう辞めようと毎回のように思う。けれど結局、数ヶ月ごとに臨界は訪れる。
 判っている。無駄な抵抗なのだ。
 相手と同じだけの強さでパートナーを想い、恋い焦がれて、その心を欲し、――それだけでは済まない躯の欲を持つのが何よりも自分自身であるからこそ。
 共に在るだけで、触れ合わずとも暖かい時間を過ごせるだけで充分だと、そう自らに何度言い聞かせても、……触れ合わない時を重ねて次第に疼いてゆく躯が。いちど感じてしまった快楽を覚えている躯が。
 ひとときでいいから、躯だけで良いからひとつになりたいと、そう叫んで数ヶ月ごとに熱く疼き出す。
 それが自分だけに起こっているのではない事も、知っていた。
 解消する手段は、いつであろうともただ一つしか存在しない事も。


 それでも、次第に魂を蝕んでゆく虚しさはどうしようもない。


 いっそのこと、どちらかが相手より自分の想いを優先する事が出来たなら。
 躯だけでなく心もひとつになりたいと、自分の命も相手の命もどうなろうが構わないと、そう思えるのなら。
 何もかもを永久に終わらせて、楽になれるかもしれないのに。


「――いっそのこと…そうして。――もう、こんなのは……終わりにするか?」

 壁に凭れたままのデクステラが、独り言のように呟いた。
 もうシニストラには、自分の嗚咽が音になって響くのを止められなかった。

 ――そんな事が出来る訳が無いのに。俺もあなたも。

 自分よりパートナーの方が大事だから。だからこそ。


 けれどいつかは、やがて必ずそうなるのだろう。
 互いの重力に囚われた連星に待つ未来の運命はひとつしかない。
 共通重心の周りを、止まる事も許されず回り続ける互いの運動はやがて永い時間をかけてそのエネルギーを失い、次第に形を留めなくなって共に崩壊してゆく。
 時に恐怖で、時に羨望で見遣るその未来が、床に倒れたままの今のシニストラの脳裏には吐き気のするほどにくっきりと映っていた。