■ Captain

 蒼銀の長い髪の彼は、ベッドの中で深い深い溜息を吐いた。

 ……どうしよう………
 ……俺はどうすればいいんですか、キャプテン………。

 枕に顔ごと突っ込んで、呼吸困難になる直前まで微動だにも出来ず、ようようゆるりと頭を傾けて横を向く。
 髪の散るベッドの上には彼一人の姿しかない。
 軽く片手を当てた唇の、動きだけでもう一度、意識の中に描いた人の呼び名を口にした。


 …キャプテン。




 一目見れば網膜にまで焼け付くような、鮮やかな緋色の髪を持つ己の司令官。
 他を排するほどの圧倒的な存在感を持って常に陣頭に立ち、自分を含めたエストランドの十人の隊員たちに鋭く指揮を飛ばしながら戦場の敵と混沌を次々と捻じ伏せてゆく、その姿に、強い尊崇と憧憬を抱き――そんな彼の片腕と呼ばれながら、その元に付き従い駆けることを、ただ限りない歓びとしているのだと思っていた。
 だからただの部下の信頼としてでなく、まるで女が恋をするように自分が彼の事を想っているのだと気付いた時には――自分の想いのあまりにものおぞましさに打ち震え、胃が空になるまで吐いたものだった。
 陰謀、打算、悪意、裏世界。何もかもがあやふやで曖昧なこの時代のこの宇宙の中に在りながら、穢れを赦さず、自らの信じる信念の元にどこまでも鮮烈に生きるその姿。シニストラ自身が大事に守ってきたはずの上官のその姿を、自らの手で徹底的に汚したのだと。
 それでも一度自覚した想いは止めようがない。仲間と歓談するその姿を目で追う自分がいる。あの深く低い声の欠片でも捕らえようとする自分の耳がある。彼と並び立ち共に任務に専念する、その時にすら、否定する意識の裏で魂ごと彼へと傾倒していく己の想いがある。
 ただ純粋に恋い乞う自らの想いを力任せに捻じ伏せ続け、醜く翳く歪んでいく己を、シニストラ自身にはもうどうする事も出来なかった。




「――シニストラ、どうした? 上がらないのか?」
 夜も遅くに緋色の髪の上官の隠れ家セーフハウスを訪れ、ドアを閉めたままその場で立ち尽くした自分。いつもと同じように快く迎え入れてくれ、室内へ向かう歩みの途中、振り返って訝しげに声を掛けてきた彼に、キャプテン、と呼びかけた。お世辞にも小さな声としか言えない声量だったが、それでも震えたり掠れたりしなかった事に少しだけ安堵した。
 彼との間に今まで築き上げてきたものの全てを、これから打ち壊すのだ。見捨てられるのも侮蔑されるのも覚悟の上だったが、今まで生死を互いに預けてきた人間として頼りない奴だったのだと思われるのだけは嫌だった。
「キャプテン。……抱いて下さい。」
 握り締めた両手と不快に乾き切った唇が細かく震える。
 俯いた視線に映る訳もない、緋色の髪の上官の硬直した姿が意識の中で嫌というほどにはっきり見えた気がした。
「………一度だけでいいんです……」
 もう、これで何もがもが終わるのだから。成就し得ぬ運命に翳くいびつに歪んでいった恋心も。その醜い想いを彼自身に悟られ、彼の信頼と彼の存在そのものを失うことに怯え続けてきた日々も。
 そうして陰を帯びて俯いたまま動けなかったシニストラに、次の瞬間与えられたものは――強引なほどに力強いのに、限りなく広く優しく、暖かい抱擁だった。
「……そんな顔をするな、シニストラ。……俺も同じだ。もうずっと前から。」
 耳元で吹き込まれる言葉の意味を、頭のどこかでは理解しているような気がするのに、固く強張った心は容易くそれを受け入れようとはせず、信じられない思いでシニストラはデクステラの言葉を聞いた。
「……俺はまだ耐えられたから。おまえが自分の想いを拒絶していたのも知ってたから。だからおまえが自分で自分の想いを許容できるようになるまで、俺は待っているつもりだった。……そんな顔をさせるつもりじゃなかった。そこまでおまえが苦しんでるとは知らなかったんだ。……気付いてやれなかった。ごめんな。」
 そうして続けて与えられた優しく深い接吻は、長い時間の間に醜く歪んでいたシニストラの心と想いを、その芯まで溶かし尽くし、どこまでも白く透明に浄化していったのだった。
 内から沸き上がる涙を零さないようにするのが、シニストラに出来た精一杯だった。



 体中が震えて動けなくなった自分を力強く抱え上げて運んだ両手が、ベッドの上に下ろされた今は恐怖を覚えるほどに甘く自分の服を解いてゆく。
「……愛してる。シニストラ。」
 初めて与えられた、夢にすら思い描けなかった言葉を恋い焦がれ続けた低い声が耳元で囁く。ぞくりと躯中を快感が走り抜けた。
「……俺も。俺も、あなたを愛してます。…キャプテン。」
 強く抱き締められたその腕の中、殆ど体格が同じはずの自分の躯を酷く小さく頼りなく感じた。


 それから後はもうかなり意識が朦朧としていて、部分部分しか、それも霞が掛かったように朧げにしか思い出せないのだけど。


 広い手は項から背中、腕、指先、胸元も足も、全身に滑って愛撫されて、その全てにどうしようもなく感じている自分がいた。女みたいで情けない、そう思われたくなくて快感に歯を食いしばって耐えていたら、どこからどう悟られるものか、軽く口付けられて「我慢するな」と囁かれた。
「浅ましいなんて思わない。俺を感じてくれて嬉しい。おまえの全部をさらけ出してくれ。…なにもかもを知りたいんだ。」
 その言葉に煽られ、胸の上に覆い被さってくる緋色の髪を強く掴みながら、キャプテン、と噛みしめるように零した声は、自分でも驚くほどに切羽詰まった色を帯びていた。
 長い愛撫の後に指を挿れられた時、彼の紫の目は軽く驚きに見開いて、その視線に居た堪れなくなったシニストラは目を固く瞑って顔を逸らした。
「……自分で解してきたのか…?」
 具体的に言葉に顕されたそれの、あまりの身の置き所の無さに、是、とも言えずただ躯を強張らせる。万が一にも彼が、たとえ侮蔑と共にでも自分を抱いてくれるなら、彼の手を煩わせてはいけないと、そう思いつめて取った行動だった。
 翳い想いで彼の家に来る前に自らに施したその行為は、次第に解けていったその部分と逆にただ躯をどこまでも冷えさせ、まして快楽などは欠片も感じなかったのに。
「……もう二度と、そんなことはするなよ。…俺がおまえを溶かす楽しみが無くなる。」
 そう告げられた瞬間、躯中が一瞬のうちに熱くなり、思わず身の裡の指を締め付けたら、微笑ましいと言わんばかりに彼は笑った。
 その癖に、それからひたすら長い時間、彼の手は自分を溶かし続けて……別にシニストラの方からねだらせたかったという訳でもなく、ただ快感に身を捩って意識を朦朧とさせる自分を見たかっただけのようだったが、散々指で探られて感じさせられて……あの時デクステラが一言でも懇願の言葉を口にするよう自分に強いていたなら、シニストラは身も世もなく全てを手放してデクステラを求めていたに違いなかった。
 そうして長い時間をかけて溶かされた自分の躯が、ようやくデクステラに貫かれると、シニストラは視界を何度も白くスパークさせながら、自分を揺する腕の中にただ溺れ、キャプテン、と熱に浮かされたように何度も繰り返し目の前の自分を抱く男に呼びかける事しか出来なかった。




 そうして冒頭の頭を抱える姿に辿りつく訳だけれども。



 昨晩はどこで記憶が途切れたのか覚えが無い。
 気がついたら、というか、目が覚めたら朝で、――カーテンの端を淡く光らせる窓の外の光の具合からして、一応早朝と言っていい程度には早い時間帯であるようだけれども――隣に緋色の髪のかの姿は無くて……何処へ行ったのか、けれども確かにこの場所は夕べ彼に抱き上げられて運び入れられた彼の寝室で。
 その事実に再び深く頭を抱える。
 そもそも朝まで彼の家で過ごす気など、毛頭なかったのに。
 彼の侮蔑の視線を受けながら粛々と夜道を項垂れ帰るか、仮に抱いてもらったにしてもいちど身を重ねれば大人しく早々に引き下がるつもりだった。疎まれる前に離れようと思っていた。彼の愛情を長い時間この身に受け続けるなど、傲慢も甚だしいことだと思っていた。なのに。
 昨夜も一度はそうしようとしたのだ。
 意識が飛びそうになるほど果てしなく甘苦しい律動の果てに、快楽の証を吐き出して、彼のそれを躯の中へ受け入れて。余韻にがくがくと震える躯と荒いままの呼吸の中、それでも彼から離れようとした自分の動きをデクステラの手が押し留めた。
「…どうして逃げる?」
 力強い腕に上半身を軽く抱え上げられ絡め取られ、力が入らず仰け反る首を、それでもなんとかゆるゆると打ち振って否定の意を伝える。
 ふわふわと舞う自分の長い髪の蒼を視界の端に見た。
「……シャワー……浴びないと………」
 整わない荒い息の合間で切れ切れに呟いた。
「抱かれた後で俺と一緒に居るのは嫌か?」
 もう一度、力を振り絞って首を振る。
「……俺のが……あなたが汚れる……」
 そう伝えたら、自分の躯の上を伝っていた白濁をまるで思い知らされるようにぬるりと手でなぞられて、快楽の余韻にまだ感じ過ぎている肌のその感触にびくりと躯が跳ねた。
 指に付いた自分のそれをさも愛しげに彼が口で舐め取る姿に、危うく気を失いそうになる。
「おまえが俺を受け入れてくれた証だ。……もっと欲しい。」
「キャプテン!」
 なおも舌を動かそうとするデクステラの動作を必死で押し留めて、残念そうな表情をするデクステラに、ならばと抱き寄せてくる腕を留める術も無く、シニストラは大人しく想い人に従った。
 けれど自分の躯を引き寄せた腕は、呼吸を置く間もなく再び愛撫の動きとなる。
「キャプテン……」
「悪い。……足りない。」
 俺だって相当我慢してたんだ、そう短く言い放ってふわりと覆い被さってくる躯に、魂の底から沸き上がってくるような歓びを覚えるシニストラがそれを止められる訳も無かった。



 …その時はいい。その時だけなら。



「……どんな顔をして、顔を合わせればいいんですか………」

 深い深い溜息を吐いて再び枕に沈む。
 目が覚めた時、自分の置かれた状況を認識して力一杯狼狽えたが、同時に隣にデクステラの姿がなかった事に少しだけ安堵した。正直、顔を合わせていたらどんな表情をすればいいのか皆目見当が付かなかった。
 女性のように照れたり顔を赤らめたりなど、男の自分がするにはあまりに情け無すぎてどうしようもなく嫌だ。けれど上手くかわそうとするには匙加減が判らず、冷淡と見られそうなほどの対応を取りそうで。というかこういう事で悩む今の状況そのものに幻暈がしそうだった。
 デクステラが家から出掛けているのならその間に自分の隠れ家セーフハウスへ帰ろうかとも思ったけれど、それも無理そうだった。立とうとするだけでも四肢に力が入らずに膝が笑ったので、……それと、腰が。
 デクステラの腕に導かれて散々乱れた昨夜の自分を思い出し、この朝何度目かの躯の火照りを自覚する。鏡があれば頬は真っ赤に違いない。
 もう一度深く溜息を吐いて、ごろりと天井を仰いだところで、シーツの上に散らばる自分の髪が目に映った。
 青い流れの乗るシャンパンゴールド色のシーツは、シニストラが持たない色のものだった。確かにデクステラの家にいるのだと、まだ夢現のように信じられない思いでそっと滑らかな色のシーツを撫でる。
 今朝何度めかの溜息が意図せず零れた所で、不意に涙が滲んだ。
 ……何時間か前までは、こんな幸福な悩みで溜息が出るなど思ってもいなかった。軽蔑されて、呆れられて、……何よりも誰よりも強く想い慕ってきたあの人を、永遠に失うのだと思っていた。
 ……幸せで涙が出るなんて、思ってもいなかった。

 涙を流すのは自分の信条に反するけれど。今、この場所には誰もいないから。一人だから。
 零れるままの涙を今は自分に許そうと、そう考えて、シニストラはふわりと目を閉じた。


「……キャプテン」
 もう一度、そっと呟く。


 昨夜からの快い疲労を帯びた小さな泣き声は、やがて自然に穏やかな寝息へと変わっていった。









「……昨夜の疲れさせ方が足りなかったかな」
 小さく独りごちて、デクステラはようやく寝室の扉を開いた。
 自分のベッドの上には、目尻に淡く涙の筋を残して穏やかに眠る想い人がいる。
 独りで狼狽えるシニストラの真っ最中に進入して慌てふためく姿も見てみたかったが、ここ何時間での状況の激変にまだ付いていけない様子の彼には少し可哀想かと思ったから、こうやってドアの前で少々くたびれるまで待っていたのだけれど。
 長く豊かな蒼銀の髪を散らして眠るシニストラの、その表情は穏やかだった。手を伸ばして髪を一房掬い取り、目を閉じてそっと口付ける。
「……おまえ、本当に何も判っていないだろう……?」
 この艶やかな流れ、凛々と立つ姿のぴんと伸びた背筋を彩る豊かな蒼色に、今まで自分がどれだけ恋い焦がれたか。自分の腕の中でその躯を抱いて、こうやって彼が自分の寝室、自分の見守る中で眠ってくれればと、どれだけそう願ってきたことか。それが現実となって叶った今、想い描いていた想像を遥かに超えた歓びをどれだけ自分にもたらしたことか。
 目の前で眠る彼の姿に、まるで少年のような胸の高鳴りを覚える自分の鼓動を聞かせてやりたいと心底思った。
「……それもこれも、いつか、な。」
 当然のように返事は無く、再びの疲労と安堵の中に昏々と眠り続ける小さな寝息が聞こえるだけだった。
 小さく笑った緋色の髪の司令官は、その髪の一房を手に取ったまま、目の前の鮮やかに綺麗な恋人の姿をいつまでもただ見続けていた。