■ 隠し事

 デパートメントの1階、女性に人気のあるブランドの化粧品店の一角に彼がいるのを見つけたのは、ただの偶然だった。
 ずいぶんと珍しいその光景に、俺は足を止めてそのまま遠巻きに眺めた。

 GOTT本部に近いこの有名百貨店では、確かにESメンバーと、特に女性陣とはよく会うことがあって、…ああそれと、いつもの女装の種にするのかアンオウあたりはよく居たりして、この間はエクレールとリュミエールが一緒に新色の口紅を試しているのに会ったし、迷っていた最中らしい2色の良否をエクレールに訊かれたりもした。
 けれど俺自身のパートナーの彼と遭遇することは、滅多にない。もともと人込みが嫌いな人だ。
 だからたまたま、GOTTへ出勤途中の近道に使ったそのデパートで彼を見かけたのは、本当にほんの偶然だったのだ。
 黒を基調としたラフな服装をしていても、身に付けているものは全て見る人が見れば判る質も品も良いもので、強烈な印象の真紅の髪と相俟うその姿は人気店の雑踏の中でもよく目立つ。甲斐甲斐しく世話を焼く女性店員の話もあまり聞いてないのか、時々曖昧に相槌を打ちながら、真剣な表情でショーケースに並ぶ口紅らしき小さな円筒を手に取っている様子は、どこからどう見ても恋人へのプレゼントを選びに来た一流の男性客だった。
 ああ、誰か好きな女性でも出来たのかな、とふと思う。
 それから我に返って、今自分のしている行為が覗き見に当たることに気がついて、酷い羞恥心と自分への嫌悪感とに襲われた。
 俺は彼から視線を外して、再び当初のGOTT本部へ向かう道のりを歩き出した。

 こういう時、普通は嫉妬とか疑惑とかの感情を抱くものなのかな、とぼんやり考えるけれども。
 そういう感情というものは、俺たちの、俺の考えることとはひどく縁遠い事だった。

 彼とはもう長く共に在って、躯を重ねるようになってからも随分と…それこそ俺たちの見掛けの姿からは想像もつかないほどに長い時が経つ。
 だからと言って俺たちは恋人同士なのかと誰かに訊かれれば、素直にイエスとは云い難い違和感があった。

 俺たちはパートナーで、互いの能力を生かすには互いが必要で、それ以前に互いが存在するためには互いがどうしても必要な存在だった。
 自分たちがこの宇宙に存在すること、その最も根本のところで俺と彼とは支えあっている。
 だからといって俺たちは、互いの想いを縛るような約束を交わしたことなど何もない。
 彼と共に在ることも、彼に抱かれることも、俺からすれば俺自身がそうしたいからしているだけで。もともと生物学的には不自然な関係なのだ。
 だから彼が想いを抱く女性が出来たとしてもごく当然のことだと思うし、むしろ今までそういう気配が容姿も端麗な彼に全く皆無だったのが不思議なくらいですらあった。

 相手は誰なのだろうか…まあ、自分の中でだけならこの程度の詮索は許されるだろうと、大通りの歩道を歩きながら思う。
 最近新しく会った女性は、と考えて、この間エクレール達から初めて紹介されたあの少し風変わりな受付嬢の班長さんと、彼女の良い相棒らしい副班長さんを思い出す。自然と小さな笑いが俺の口からこぼれた。
「シザーリオの声をきくことができるのは、よっぽど嬉しいことがあったときか、……辛いことがあったときだけよ」
 珍しく少し寂しそうな、ヴァイオラの表情。
「特殊能力を持った者は、互いのパートナーに対し、必要以上に立ち入ってはならない」
 …厳しく低い声の、彼。

 徐々に近づく、高く聳え立つ本局のビルを見上げながら、回想は連珠のように、とりとめなく浮かんでは消えていった。


 俺より少し遅れて秘書室に姿を現わしたデクステラは、傍目にもずいぶん機嫌が良さそうだった。不思議がったメルクルディ秘書官が「何か良い事でもあったんですか?」と彼に訊いたくらいには。
 彼は適当に口を濁して何事かを答えていたが、どうやら目的の買い物は、上手く行ったらしい。

 エクリプス局長から特務を拝命して明日にもアイネイアースを発つ、そういうその日の夜、彼は自分の家で俺を抱いた。

 彼は広いベッドが好きだ。……まあ、仮にも男二人が寝るのだから広いベッドが、というより広いベッドでないと、というところではある。おかげで双方の家には、キングサイズのそれが置いてあったりするのだけれど。
 いつもの抱かれ慣れたそのベッドで、俺の肌を滑る彼の愛撫の仕草がいつもとは微妙に違うことに気がついた。
 微かな違和感……普段は慣れた手順で進む彼の愛撫が、時折、何かを躊躇うように……いつもは強めに俺を抱く彼にしてはあまり似つかわしくなく、酷く優しくて……そうして彼の唇が何度か止まった場所が俺の胸の上だったりしたので、ああ、なるほどと妙に納得したりした。
 そうして自分の想像が、大して外れていなかったことを知る。

 俺は目を閉じて、瞼の裏の闇の中、俺の上で次第に熱を増してゆく彼の感覚を追った。

 誕生日が近いわけでもないし、近くの日で記念日になるような何かが過去にあった覚えもない。
 女性のコスメティクスになどは疎くて、そういうものを貰ったところで使い道も知らないし、彼だってそういうことに詳しいわけではないはずで……彼にしては今日の行動はずいぶん思い切ったことだったのだ。

 彼にこうやって抱かれるのも、もうそれほど長いことではないのかもしれない。
 俺の耳朶を甘噛みする彼の唇を感じながら、そう思った。


 彼は広いベッドが好きだ。
 だからといって特務中、宿泊先にダブルを指定することは流石にしなかった。GOTTの名が絡んでいようといまいと、男二人、世間を歩くのにそれなりの体面というものもあるし。
 それは彼も、十分心得てはいるのだけれど。

「……だからと言って、最上級のスイートを取るのもどうかと思うんですけれど。それも特務中ずっと」

 軽く頭を押さえながらソファに腰掛ける。
 シャワールームから上がってきたままでまだ髪をなおざりにしか拭いていなかったが、少し身体が気怠くて面倒だったのでそのままバスローブに滴らせることにした。ソファにもぽたぽた雫が垂れてホテルに申し訳なく思うけれども、仕事が解決して緊張の解けた身体は動く気になれない。
 任務が終わって表情のほぐれた彼は、俺の正面で悪戯っぽく笑って、テーブルの上に用意されていたワインクーラーを手元に引き寄せた。彼の今日の夕食の時のものらしい蝋燭に再び火を灯し、デキャンタージュの準備を始めたから、それがこのホテルにチェックインした日あたりから予め彼が手配していたらしい相応の年代物であることを理解する。
「メルクルディ秘書官が嘆きますよ、明細書を見て」
「なに、文句を言われれば俺の財布から出すさ」
「スイートも…どうせ一人寝をすることは予め判っていたのに」
「一人寝だからせめても、で良い部屋にしたんだ。おまえと寝れるのならどんな狭いベッドだって天国さ。」
 笑いながら彼は白をデキャンタに注ぎ終える。
 長く共に在るとはいえ、二人きりの時には遠慮のないあからさまな彼の言葉に、流石に俺の頬に少し熱が上った。

 ワインを飲みながら、今日までの短い情報交換の時間では伝え切れなかった顛末の詳細を語り合う。

 今回の特務は俺が昼、彼が夜に行動する形で調査を進めて、同じ宿所に――この部屋のことだ――寝泊りしていたとはいえ、任務中ほとんどずっと行動パターンが別々だった。こんなことは珍しい。
 無事に特務を果たしてようやくこの部屋に帰り着いて、先に帰ってきていた彼とたったさっき会ったところで、もう夜も更けていたからとりあえずシャワーを浴びて寝る準備をして、こうやって落ち着いて彼の姿をじっくり見るのも久しぶりだった。

 彼の姿は…確かに端正で、改めて思う間も無く強く凛々しいといつも俺も思っていた。
 彼が好意を抱いた女性が誰であれ、彼に思いを寄せられて突っ撥ねる女性はいないだろう。
 彼が俺の前でこうやって寛ぐ時間が、いつまで続くのか…彼の顔の輪郭を何とはなしに目でなぞりながら、意識の中で緩く未来を辿ってみる。

「……ストラ。シニストラ」

 そうして彼に名を呼ばれていることに気がついたのは、顔の輪郭を追っていた俺の目線が彼の口元まで来た時、彼の口が俺の名前を紡いでいるのを目にした時だった。
 顔を上げて目線を彼と合わせると、彼は呆れたような顔をして俺を真っ直ぐに見ていた。

「……シニストラ。おまえな…」

 そういって小さく溜息をつく。
 何のことか判らない俺の表情は、どういう風にも変えようがなくてただ彼を見た。

 彼はもう一度呆れたような表情をすると、ワイングラスを置いてソファから立ち上がり、テーブルを回ってゆっくりとこちらに近づいてきた。

「……判ってるのか? 俺が何日おあずけを食らってたのか」

 見上げる俺に向かって彼はその瞳に欲情を含ませた微笑を見せ、片手を俺へと緩徐に差し伸べる。
 そんなところにはまだ変化が見られなくて、いつもの彼で、俺は小さく笑って彼の手を取った。
 軽く腕を引き上げられて、ソファから立ち上がる。視線の高さが彼とそう変わらない位置になった。

「……一体おまえのほうは、いつになったら俺に夢中になってくれるんだか……」

 俺の手を取ったまま、俺の目の前で笑いながらその瞳だけはどことなく少し寂しそうに見える彼の表情は、なぜかあの日のヴァイオラのそれを思い出させて。
 ……そうなのだろうか。俺が彼に夢中でないなどと……そんなつもりはないのだけれど。
 彼にそう思わせる俺自身が、彼の心移りを招き寄せたりしたのだろうか。
 そんなことを考えながら間近の彼の顔をそのまま見詰めていたら、彼はゆっくり上半身を屈めて、俺のバスローブの合わせ目の隙間に唇を寄せてきた。乾きかけて少し乱れた彼の緋色の髪が、俺の顎の下辺りをくすぐる。その感覚が心地良くて俺は目を閉じた。
 けれども俺の肌の上を滑り始めた彼の唇は、程無くしてやはり何かを躊躇うようにその動きを止める。
 ああ、やっぱり、と思って、俺は何であるかわからない何かを静かに観念した。



 不意に俺の背に回されていた彼の腕が強く引き上げられて、俺の躯は彼へと差し出されるように大きく反った。
 次の瞬間、俺の胸元の表面に強い痛みが走る。


 俯いたまま俺からゆっくりと離れていく彼は、さっきまでの笑いが信じられないくらい真剣な表情をしていた。
 伏せられていた神秘的な紫の瞳の視線が、胸元から首筋をすうっと上がってきて俺の目を見た。
 真っ直ぐに向けられる彼の真剣な瞳に、俺の躯が縛られる。

「……一度でいいから、付けてみたかった。見える場所に」

 肌の上を滑る指の感覚で我に返る。
 彼の指の乗せられている自分の胸元を見れば、

 ………ぽつりと紅い、彼の所有の印があった。


 彼の言う通り、いつもの俺の制服だったらあからさまに外に見えてしまう場所に。


「……どうするんですか。こんな」
 明日にはアイネイアースに帰還して、GOTT本局のエクリプス局長のところへ出向かなければならないのに。

 彼がこんな、理性の判断に外れたことをするのは初めてだった。
 ……最初で、最後だから?


 その時、彼が笑った。新しい遊びを見つけて無邪気に喜ぶ子供のように。
 片手をバスローブのポケットに入れ、片手で俺の手首を掴み、引き寄せた俺の手の中にポケットからの小さな何かを握り込ませる。
 手首を開放されて一瞬あっけに取られて、それから彼に握らされた手を見て、ゆっくり掌を開く。

 小さなスティック状の青くて少し冷ややかなそれが、差し込んだ光を弾いた。

 口紅?
 あの日の?
 俺に? これが何か?

 彼を見たら無言で促されたので、俺はスティックの蓋を開けた。

 それはやっぱりどう見ても口紅で。
 でも何の気なしに捻って先端を出したら、……淡い肌色だった。


隠し事コンシーラー、と言うんだそうだ」


 弾かれるように視線を上げたら、あの悪戯げな顔で俺を覗き込む彼の視線が真正面にあって。
 再び動けなくなる俺に、彼は俺の手からそれを取り上げて、今しがた彼がつけたばかりの印の上をなぞった。その色は俺の肌に驚くほど馴染んで、俺につけられた彼の所有の印は完全に消えるほどではないけれど確かに目立たなくなる。
 呆としたままの俺のもう片手からカバーも取られて、彼は使ったスティックに青い蓋をしてもう一度俺の手にそれを握らせた。
 彼を見て、視線を落として手の中のそれを見て、何も言えないまま再び視線を上げてまた彼を見たら、彼の悪戯げな表情は少し薄れていて、その分真摯な情愛が、真っ直ぐに俺に向けられるその瞳の中に含まれていて。
 胸の辺りの何かがふっと軽くなって、その感触はそのまま頚部を上り浮き、無意識の言葉になって出ていった。


「……これだったんですか。あの日の」


 しまったと思って口をつぐんだが、その時にはもう遅かった。
 彼の端麗な眉根が訝しげにすぅと寄せられる。
 その視線が居た堪れなくて、俺は顔を伏せた。

「……見ていたのか?」
「……………」

 沈黙が肯定を彼に伝える。
 その事実に消え入るような思いだ。

「どうして……俺に何も訊かなかった?」
「………………」
 俯いたまま、俺は何も言えない。言える訳がない。
 覗き見なんて、そんな恥知らずな行動をしていたなどと。

 彼は少し沈黙すると、大きな溜息を吐いた。思わず身が竦む。
 けれどふうと影が差したかと思うと、彼の大きな片手が――俺の頬に添えられて。
 それがひどく暖かくて。

 思わず目を上げると、彼は少しだけ哀しそうな、けれども物凄く安心できる還る場所のような微笑を俺にくれて。

「……馬鹿だな」
 そう呟いた。


 頭の奥の辺りが、ふうわりと熱く感じた。


 驚く彼の顔が風景ごと可笑しな方向に傾く。視界の端で乾きかけた自分の水色の髪がなびく。
 何故か見る見るうちに近づく床に届く寸前、強い腕に包まれて引き上げられた。上も下も判らなかったが引き「上げ」られた、のだと思ったのは床が俺から離れていったからだった。
 彼の目は彼が俺を掬い上げた(掬い上げた、らしい)その瞬間によりいっそう強く見開かれて、そんなに瞼を開いたら綺麗な目が零れ落ちちゃいますよ、なんて余計な心配をしたりした。

「……おい、シニストラ。おまえいつ、最後に食事を摂った?」
「………はい?」

 彼の暖かい腕の中、片手で軽々抱え上げられながら訊かれたことの意味がわからなくて、俺の返事は妙に間の抜けた音になった。
 数秒遅れて質問の意味を理解して、何故か上手く回らない思考を動かして考える。

 ……そういえば最近は何かを食べる気がしなくて。
 空腹も覚えなかったし、必要も感じなかったので。特務の調査もしていたし。
 とりあえずこの惑星に来てから、食べるものを調達した覚えがない。

 深く考えることが出来ないまま正直にそう言ったら、彼は絶句した。

「……この馬鹿が!!」
 そうして次の瞬間、力強い低音バリトンで思い切りそう怒鳴りつけられた。
 鼻先何cmもないところで乱暴に身体を掴まれながら彼に全力で怒鳴られると流石に耳と頭がくらくらするが、回る視界の中で辛うじて見た彼の表情は――まるで自分のほうが傷つけられたような痛い表情をしていて。
 自分の中で無意識にあの日のことが重荷になっていた、そのことに自分でも気づいてしまい、彼にも気づかれてしまった気恥ずかしさと。それと同時に沸き起こる、俺を思い遣る彼に対する申し訳なさと――愛惜と。
 そういうものが入り混じった中で何をどうするのが最良の行動なのか判らず、ただ心の赴くままに彼に身体を凭れ掛けさせたら、彼は少し身じろいで――次の瞬間、強く強く俺を抱き締めた。
 熱いほどの腕で強く締め付けられる、その痛さが愛おしい。

 しばらくして彼は腕の力を緩めて俺と目を合わせて安心させるように笑ったけど、その笑いは少し強張っていて、軽く俺の身体を支える腕は微かに震えていた。
「……休んでろ、馬鹿。携帯医療器具メディカルキットを取ってくる。」
 彼に促されて背後のソファに座った。そのまま横にして休ませようとする彼の手を微笑いながら遠慮する。
 俺から離れて荷物のほうへ歩いていく彼の背中を、暖かくなる心で見遣った。
「……全く、おまえは。…………誰かへのプレゼントだとでも思ったのか……?」
 誰か、というのが女性を指すことは、俺も彼も言わなくても判っている。
 俺の無言の肯定に、彼は応急器具を用意する手を一瞬休めて俺を振り返った。苦虫を潰しかけたようなその表情で、彼の機嫌が一秒ごとに悪くなっていることを理解する。
 彼は大きく溜息を吐いて、それでも辛うじて俺に一度笑いを作ってみせると、再び俺に背中を向けて準備の手を動かし始めた。
「おまえはいつも、どうして……俺に何も言ってくれないんだ」


 その拗ねたような、少し震えた声が可愛かったのだ。
 だから俺は可笑しくなって、小さく微笑って、そうして何の気なしに言ってしまったのだ。

「俺があなたのそんなことにまで口を出す権利があるんですか?」



 弾かれたように振り返った彼の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
 それを目にして初めて、自分がとんでもない失言をしてしまったことに気がついた。
 背筋を冷たいものが下りていった。

 強張った顔をした彼の背後から、ゆらりと気配が立ち上る。
 殺気すら感じさせるその高熱の、巨大な怒りの気配にぞっとした。


 鈍重なほどにゆっくりと立ち上がる、その彼の手からばらばらと滑り落ちるアンプルの、高い澄んだ音を立てて割れてゆくガラスの音が危機感を煽った。


 彼が怒らせると恐い人なのは長い付き合いで知っている。
 けれど普段俺に決して向けられることのないそれが全力で自分を襲う時、それがどんなに恐ろしいかを初めて思い知った。
 まだ遥か遠くにある彼の気配から無意識に逃れようと、疲労と恐怖とで縺れる足を動かしてソファから立ち上がる。
 急速に俺の背中に迫る彼の気配をふらつきながら避けて、すぐに行き場を無くして追い詰められた壁際に背を当てた。
 次の瞬間割れるような音を立てて彼の手が俺の顔の脇の壁に叩きつけられて、俺は強く身体を竦めた。痛みを感じそうなほどの彼の激しい紫色の視線から逸らす事も出来なくて、ぎゅうと強く目を瞑る。

「……………権利、だと?」
 彼の低い声は冷たくて、ナイフのように鋭かった。その裏の、隠し切れない圧倒的な怒り。
 ただ恐くて恐くて仕方なくて躯ががたがた震える。

「――そんな当たり前の事を、よくもそれだけ平然とした顔で訊けるな……シニストラ?」

 幻暈がするほどの緊張に縛られ、俺の躯の震えはますます酷くなり、頭の中がどくどくと熱くなる。
 自分の名を呼ぶ彼の声がこれほど恐いと思ったことは、彼と共に軍にいた時ですら無かった。

「――っ申し訳ありませんっ―――!」
 無言の彼の圧迫感に堪えられなくて俺は混乱する頭で口走った。
 途端に彼の右手の硬い拳が俺の顔の真横の壁を叩き壊し、飛んだ小さな破片が俺の頬を掠めた。
 ぎりりと音を立てて壁に爪を立てる彼の腕も俺に劣らず震えていて、その激しい振動が壁伝いに伝わってきそうなほどだった。

「……俺は何度おまえに愛してるって言った?」
「………すみませんっ……」
「……愛してると。おまえが必要だと。おまえだけだと。……何回言った? 何度伝えた?」
「…ごめんなさい……」
「何度おまえを抱いた? 何回おまえに想いを注いだ? 何回?」
「ごめんなさいっ……」
「いつになったら……っ!」

 吐き出すように彼は叫んだ。


「いつになったら、俺の存在はおまえへ届くんだっ……!!」


 両腕を掴まれて、床に叩きつけられた。


 彼の両手と両足と、視線に、俺の全身が縛られる。
 目を見開く今の俺は、たぶん恐怖に怯えた顔をしているのだろう。


「………互いのパートナーに対し、必要以上に立ち入ってはならない?」
「………………」
「笑止だよな」
「……………………」
「……おまえが一度だって、俺をその心の中に立ち入らせてくれたことがあったか?」
「…………」
「俺の存在を………」
「………」


 耐え切れなくて目を閉じた。
 強く瞑った瞼の裏に、懐かしく白い光が溢れる。


(情が薄いわけではない。ただその表出に乏しい。思う事を伝えようとしない。)
 昔、誰かにそう言われた事がある。
 逆光の白い光の中を歩く姿。
(……それがいつか、取り返しのつかない誤解を生むかもしれない。……気を付けろよ。)
 そう俺に言ったのは誰だったか、思い出そうとして目を凝らせば、
 ……白光の中の、緋色の髪。

 それがまだキャプテンと呼んでいた頃の、エストランド時代の彼であったことを思い出す。



 目を開いて見た彼は、まだ身体が竦むような恐ろしいほどの怒りに苛まれているのに、
 ……とても哀しそうに見えた。

 彼を手酷く傷つけたのは俺なのだ。
 何よりも大事な人なのに。


 力任せに捻り上げられた手首に、顔が歪んだ。

「いいかげん覚えろ」
「………」
「いいかげんに、俺を覚えろ。俺の存在を」
「……………」
「俺のことだけを考えろ。俺だけを感じろ。……俺だけをその中に満たせ。おまえの中に」


 低い彼の声は怒りの気配に満ちていて、触れてくる彼の指すらまだ恐ろしくて仕方なくて、痛みと恐怖で身体が震えるのに。
 ……目の奥がじわりと熱くなって、
 …躯が熱くなってくる。


「泣きたいんだろう?」
「……………」
 俺は微かに、弱々しく頷いた。
「泣けよ。……痛くしてやるから」
「…………」
「酷くしてやるから。泣けよ。……俺の腕の中でだけ泣け。」
「……………」


 予告どおりに、その夜の彼の抱き方は優しいほどに酷くて痛かった。
 彼の腕の中で俺は信じられないくらいに何度も泣いた。どこにそれほど涙の泉があるのかと思うくらいに。
 抱かれている最中、俺の中は彼だけで一杯になって、彼のことしか考えられなくて、それでも彼は満足せず、俺は彼に導かれて何度も彼の名を呼ばされた。
 指一本動かすのも億劫になるまで抱かれ続けて、抱かれて気を失って、抱かれる感触で目が覚めて、それでもまだ抱かれ続けた。


 ……シニストラ。
 ……俺のシニストラ。

 朦朧とする俺の意識に彼が囁く。
 覚えさせられた俺の躯が、もう何度も繰り返させられた名前を紡ぐ。

 ……デクステラ。
 ……デクステラ。
 ……デクステラ。
 ……俺のデクステラ。


 そうして彼は、ようやく、……ようやく安心した顔を俺に見せた。



 けれどそうやって眠って朝起きて見てみれば、結局見える位置につけられたのは最初のあの1つだけで。
 それがどうしようもなくて俺は小さく小さく笑って、それから朝の光の彼の暖かい腕の中でもう一度泣いた。





 栄養失調寸前の身体にそういうことをされると、携帯医療器具メディカルキットを使ったところで予定を1日延ばしにする他はなく、アイネイアースへの帰還と本局への帰参は1日遅れることになった。
 本局ビルに入る手前のところで、彼は俺に向かって何とも言いようのない顔を向ける。
「いいんですよ」
 笑って答えたら、彼は少し戸惑って、それから表情を変えて、あの強くて明るいいつもの笑いを俺にくれた。

 隠さないままの、俺の胸元の痕。

 受付のエクレールとリュミエールは揃って真っ赤っ赤のゆでだこになった。
 秘書室でメルクルディはティーポットを取り落とし、間一髪デクステラが床に落ちる前に受け止めたけれど1回分のFARTNUM&MUSONのダージリンは駄目になった。お湯が入ってなくて良かった。
 流石に俺たちも、エクリプス局長に「あら。まあ。うふふ」と艶然と笑われた時は2人とも少し顔が赤くなったが。
 報告が終わって局長室を出たところでシザーリオとヴァイオラに見つかってしまい、指を指して数瞬口をぱくぱくさせたヴァイオラがやがて「……………デクちゃんシニちゃん、ずるーい!」と言ったけれど、シザーリオの平穏のためにもその意味は深く考えないことにする。


「これから先、使う機会があるのかな」
 本局ビルを出て気候の良い快晴の日の下、俺の手の中から青い円筒を取り上げた彼が眺めながら呟く。
「さあ。どうでしょう」
 あなた次第だと思いますよ、と俺が言ったら、そうだな、と彼が笑った。


 俺はひとつ、彼に隠している事があった。
 それは俺が第七門セブンスゲート研究所で、『ウェネヴァ』の能力に目覚めた時の事だった。

 もう駄目かもしれないと……けれど隣にいる彼を置いて死ぬ訳にはいかないと。そう思って目覚めた時。
 星のように煌く光が、しかし昼のように強い白光の中で一面に広がる視界の中、俺は初めて、そして今日に至るまでのどの時よりもはるか遠くまでの未来を見通したのだった。

 そこに映る光景は、けれどただひとつだけで。

 あなたが俺の隣で笑っている、ただそのひとつだけで。


 その時俺は、どんなに遥かな時間が過ぎ去ろうともあなたが俺の隣にいる、そのことを疑いようのない未来の事実として知ったのだった。


 俺がどんな時にもそれほど容易く感情的になれない理由は、突き詰めていけばここにもあるらしかった。
 たとえどんな事が起きても、何があろうとも、彼が俺の隣で笑っていてくれればそれでいいから。
 それだけで良かったから。


 けれど今まで、このことを彼に言ったことはなかった。
 形として発された言葉は時に枷にも制約にもなりうる。間違いようのない未来を知っているのに、そんな矮小なもので彼を縛りたくはなかった。

 けれど、もし彼がそれを望むのなら。
 俺の胸元の印と同じように、相手から縛られる証を自ら望むのなら。


 ……今度、彼の記憶に俺の印をつけて。
 そうして俺だけの隠し事を、俺たち二人だけの隠し事にしようかと。
 俺の隣で笑う彼に、俺も笑って応えながら。
 そう、思った。



■ concealer≠隠し事、なのは知ってるんですがまあそこは話のノリってやつだ、話の。
行為描写は控えてるつもりなのに妙にえっちぃ気がするのは何故でしょう。