■ プロローグ - 番外編 -

 喉が渇いて目が覚めた。
 長い髪の擦れる音が、夜の沈む部屋に小さく響いた。
 山荘のシンプルな内装の、ログの木目が目に映る。窓にはしっかりブラインドを掛けたのに、今日の真円の月の光は容赦なく漏れ入って白木の床を強く照らす。
 地球がたったひとつ持つ灰色の大地の衛星は、宇宙の平均から鑑みても、地球自身のサイズから比較すると異様なまでに大きいのだ。もう一回り大きければ地球の連星と言っても差し支えないほどに。
 初めて地球の大地に立ち、月のあまりの大きさとその明るさに驚いた何日か前の夜を思い出す。
 自分の素肌に背中から回る素肌の腕の絡みを外そうとしたら、背後の気配が身じろいだ。起き上がる途中で手首を捕らえられる。
 上半身を起こしたところで振り返れば、流れ落ちて視界に懸かる青い髪の向こう、夢現に薄く目を開けてこちらを見る深紅の髪の人がいる。
「何か飲み物を取ってきます」
 そう告げると、半瞬遅れて手首を掴む大きな掌の力が緩んだ。
 ゆるりと立ち上がって、背に髪の流れが纏わり付いた。

 宇宙そらに近く建てられた、この高地の観測所にはいわゆる有線電力が引かれていない。地下に設置された内燃電源が必要最低限の電力を供給する。
 シニストラはキッチンの冷蔵庫フリッジを開け、ボトル入りのオレンジジュースをグラスに注いだ。
 冷え込む高地の空気に晒された肌は急速に冷える。そしてそれは、先ほどまで包まれていた腕の、強引なまでに力強い暖かさをシニストラに思い起こさせた。

 ――たった一度。
 たった一度だけ、眠りの海の中にその腕の力を緩めた、そのために起こったあの時の事を、もうずっと長い間――遥かな昔になってしまったその時から絶えることなくずっとずっと長い間、あの人は後悔し続けていた。

 背後には人の覚醒している気配を感じる。
 グラスの中身を一口飲んでから、シニストラはキッチンを後にしてパートナーのいる元へ帰った。
 ベッドの上で緩く開かれたままの瞳には僅かに月の明かりが差し込み、表面に反射した光は紫の瞳を細く照らし出している。浅い眠気にまどろみながらの視線は、それでもシニストラを捉えたまま離さない。
 シニストラはグラスを手にしたままベッドサイドに斜めに腰掛け、手を伸ばしてパートナーの頬にかかる髪を払った。端正な唇と絡んだままの視線が小さく笑んだ。

 シニストラが腕の中に居ない間、デクステラは再び眠りにつくことをしない。
 彼をそうしてしまったのは、遥かな昔の、しかし紛れもなくこの自分なのだと――シニストラは胸に小さな痛みを抱えながら思う。
 喉が再度の渇きを訴えて、シニストラはデクステラからゆるりと視線を外すと再びグラスに口をつけた。
 一息ついたところで軽く手を引かれる。

「……俺にも…」

 グラスを渡そうとして手を伸ばしかけて、それが身体の動きになる前に彼のその視線の色に気付いた。
 目で語り合う一瞬の間があって、それからシニストラはグラスの中身を口に含むと、ゆっくり躯を横たえながら手を伸ばして床の上にグラスを置いた。
 覆い被さるようにして唇が重なりあう。
 喉を潤した後も、口付けは長く続いた。デクステラの舌がシニストラの口内を舐め取るように探った。
 シニストラの躯は広い胸板の上にあった筈が、何時の間にか逆に敷き込まれるように抱き締められている。
 デクステラの腕が、シニストラの肌に付いた外気を拭い取るように辿っていた。……ように、ではなく、実際にそうしているのだろう。

(――おまえの躯から、俺の移り香がしないなんてのは絶対に許せない…)
 激しい熱に浮かされた情事の最中、デクステラはそう呟いた。
(――俺の躯から、おまえの移り香がしないなんてのも……)
(――おまえの躯から俺の精液の匂いがするくらい、何度でも、おまえの中を俺だけで満たしたい――)
 酷く生真面目な顔をして、昨晩の彼はシニストラにそう言った。


 暖かい腕にゆっくりと躯を擦られ続ける感触。シニストラは再び沸き返る躯の火照りと、穏やかな眠りの予兆とを同時に感じた。
 まどろむ意識の中で、自分を捉えて離さない目の前の人のことを考える。
 最近、寝るときの抱き方が少し変わったかな、と思う。昔よりも正面から抱き締められることが多くなった。

 背中から抱き締めるその癖の元々は、直ぐ離れようとする躯を、絶対に逃がしはしない、という、彼の意思の現れだったのだ。

 強く抱き締めるデクステラの腕の中だと、正面からでは背が反る形になって寝にくいというのもあるので、眠りへの導入の優しい愛撫の間にいつもどおりの背から抱き締める形になることが多い。
 今もそうしたら、大きな手に首筋の髪を一纏めに掻き上げられて、うなじに鼻筋が埋められた。この体勢の時に当たる首筋の吐息もシニストラは好きだった。
 首の下の隙間から体の前面へ廻されたデクステラの右手は、シニストラの左の鎖骨、肩に近い端の、下の窪みあたりを緩く撫でた。たぶん無意識に。
 永い時の間に何度か身体を再生して、其処に在った傷はもうほとんど目に見えないほどに薄れてきていたけれども、確かにそれはデクステラとシニストラを繋いだ数多くの要因ファクターの内のひとつだった。
 そうしているうちに、首筋にかかる息が深く規則的な寝息になる。シニストラより先に紅毛の髪の彼が寝てしまうのも、以前の二人からすればかなり珍しいことだった。

(――少しは、安心してきてくれていると思っていいのかな……)

 シニストラ自身も、もうずいぶんと昔、自分の過去に苦しめられた時期があったけれど。
 彼がそれを乗り越えるために、デクステラはまるで己の痛みのようにしてそれを受け止めたことがあったのだ。
 そうして最終的には、むしろデクステラの方へその影響が長く尾を引いた。抱き締め方ひとつにしても。
 それがようやく過去のものとなりつつある気配が、今の彼らには確かにあった。

 銀河を揺るがした大事件の衝撃と、それを乗り越えて幼年期から脱しようとする人類。
 大きな変化は、公に知られる事のないいくつかの出来事をその内に抱え、それらの事々に深く関わった彼ら2人の関係をも、新たなる時代へと導きつつあった。

 永く永くを共に在ったはずの彼ら自身の関係も、まだその幼年期からさほど遠ざかったわけではないのだ。

 時間を超えて生きる彼らの周りで、時はその身の脇を虚しく行き過ぎるだけではない。
 穏やかな風となって彼らの中を通り、僅かずつながらの緩やかな変化をもたらす。
 それは時に、変わってしまう未来への小さな恐怖をもを伴うが、それを打ち消してくれる存在は、否定しようのない暖かさを持って傍らに在る。
 抱き締められる腕に、そっと自分の手を添えた。

 ――彼と迎える新しい時代は、どんな未来を見せてくれるのだろうか――

 そう遠くない先日、パートナーの彼が言ったように、明るい事ばかりのそれではないのだろうけれども。
 朝はまだ、少し遠い。
 そしてどんな困難にも屈しない腕は、自分を抱き締めて離さない。
 無二の存在の腕の中、今しばらくの休息の眠りへ、シニストラの意識は静かに沈んでいった。



■ サウンドレイヤー5巻の「こんなところに居たのかシニストラ」は地球に来てからの話だと勝手に思うておるんですがいかがなもんなんでしょう。