■ 門からドアまで2 - from dusk till dawn -

「……ではこれで処置終了となりますが、どうですか」
「ええ、大丈夫です。関節の可動域も正常ですし、痛みもありません」
「こちらの痣のほうは、本当に」
「はい、このままで結構です。すぐ消えると思いますし」
「わかりました。ではお疲れ様でした、…迎えのライナーを呼びましょうか?」
「いえ、結構です。歩いて帰れます。」
 いいから早く出て来い、とデクステラは廊下の壁にもたれたままドアの向こうの会話に毒づいた。
 肩越しに振り返る窓の外は林立するビル街に鬱陶しくしとしとと降り続く雨、そこから見上げればどんよりと薄暗い空一面に広がった灰色の雲。ただでさえ暗い気分をますます陰鬱にしてくれる空模様だ。
 もっとも晴れたら晴れたで、人の心空知らず、こっちの気も知らない能天気な空模様にそれはそれでそれなりに腹立たしいのだろうけど。
 どうしようもない何かを結局諦めて溜息をひとつき、もうすぐパートナーが出てくるはずのドアの方へ向き直ったものの、どういう表情を作ればいいのか判らず、デクステラは結局無表情を装った。
 間を空けずにドアが開く。青い髪のパートナーが出て来、こちらを見て驚く。
 予想していた通りの事とはいえ、複雑な気分になる。
「すみません、待っててくれたんですか。先に帰ったかと……」なんて言葉を聞けば、ますます複雑な気分。
 でも顔は無表情のまま。それ以外にどうしろというのだ、ましてやこれから言わなければならない台詞を抱えてる時に。
 躊躇いを残したような足取りで近付いてきたシニストラへ自分からも歩み寄ると、デクステラは僅かに体を傾けて小声でその台詞を口にした。
「今晩、家に行く」
 仮にもパートナーだ。たとえ「今」の状況がどうであっても。シニストラも多少はその言葉を予想していたはずだし、実際たいした動揺は見られずに「はい、…判りました」なんて落ち着いた返事をしている。
 ただ予想していたはずのそれに、シニストラの顔色がすーっと青褪める。その変化といったら、そりゃもう見事なほど。
 変化を見守る側としては非常に複雑な気分。
 あえて分解するなら気の毒4割、悔しい3割、諦め2割、不覚にも煽られてその場で襲いたい気分1割。
(というか、それでなくても顔色悪いな……)
 骨は意外に血流が豊富なので、骨折すると骨折部付近の筋肉の損傷とも相俟って結構出血量が多い。放っておくと血腫になるし、感染の可能性もないわけではないので脱血したのだろう。
「大丈夫か? …家まで送るか?」
「いえ、平気です」
 青褪めたままの笑顔で速攻即答されると、嫌でも諦め率が上昇せざるを得ない。
 そうか、とだけ言い置いて、そのまま脇をすれ違うようにデクステラは廊下を歩き始めた。
 ああ、そういえばこっちは裏口へ向かう方向。そちらから出ると家までの帰路が遠い。でももう振り返って廊下を戻る度胸はない。

 第七門セブンスゲート研究所から出所し、GOTTに戻ってもうすぐ一年。
 周囲の認識とは裏腹に、二人はあいかわらずの擦れ違いペアのままだった。


 もっともこんな状況になるまでに、デクステラの方にはちゃんとした理由があった。
 とデクステラは思っている。


 ……たった一度。
 本当の意味で情を交わしたと言えるのは、たった一度きり。
 第七門セブンスゲート研究所で初めて触れ合った夜の、あの一度だけなのだろう。

 ずっと好きだった。多分ずっと恋していた。
 常に凛として自分の傍らにあった、いつでも曇ることのないその研ぎ澄まされた姿に。心に。
 その存在がすべての殻を脱ぎ捨てて自分になにもかもを預けた、その夜の出来事は焼け付くような激情の波間に翻弄され飲み込まれて、今となって振り返ればかえって曖昧で朧げでさえある。
 ただその中でも鮮明に覚えているのは、ようやく一つになれたという陶酔感、深い充足感。こちらから注ぎ込むのと同じ激しさで返ってくるシニストラの想い。滑らかな甘い肌、綺麗な声。肌にも唇にも何度も深く口付けて、その存在を確かめた。
 涙に濡れた深海色の瞳の、その眼差しは錯覚じゃないと思いたかった。

 けれどそうやって完璧に調和した二人に、翌日待っていたのは研究所の出所手続き。
 入所当初の契約条件であった「特殊能力の開発」が満たされてしまえば、出所してGOTTに帰るしかなかった。誰よりも何よりもそれを望んでいたのは彼ら自身であったのだし。研究員達はといえば所長以下、成功例の研究統計データが揃って皆ほくほく。歓んで送り出してくれた。
 もちろん帰った先のGOTTでも歓迎された。強靭な精神力と身体能力で天文学的な確率をくぐり抜け、人知の外にある能力を手にして帰還した英雄。なまじ生まれ付きの能力よりも尊崇される。美しく才気ある上司に新しい仲間。足りないものは何も無かった。
 何も無かったから――再び体を重ねる理由がどこにも見当たらなかった。
 デクステラも暫くはどうするべきか悩んだ。特に体の内の熱をもてあます夜なんかには。嘘でも真実でも何でもいいから理由をつけて、また抱こうかと何度も考えた。

 でも目の前には、針の先ほどの些細な齟齬すらも無くぴたりと自分に完璧に共鳴する相手がいて。
 その人が笑っているから、結局それだけでよかった。
 足りないものは何も無く、他には何も必要なかった。

 あの夜の想い出だけを抱いて、この先もずっと生きていけると思っていた。


 微かな違和感を認識したのは、GOTTに帰還して1ヶ月と数週が過ぎた頃だった。
 そこから思い返せば兆候は丸1ヶ月目の頃から在ったような気がする。

 真横に立っているはずのパートナーの位置が、ほんの僅かにずれているような感覚。
 背中を合わせて共に戦っているはずのパートナーの動きが紙一枚ほどの差で咬み合っていないような感触。
 最初は気の所為かと思ったが、初めて意識上に認識してから以後のその齟齬は広がる一方だった。
 シニストラも気付いていたのだろうと思う。特務中の戦闘で息が乱れるようになった。デクステラ共に嫌な生汗をかくことが多くなった。
「……どうしたんでしょうね」
 ようやく終えた特務の後、荒い息のまま苦渋の表情でとうとうシニストラがぽつりとそう呟いたのが2ヶ月を前にした頃。
 デクステラも全くもって同感だったが、未だに原因の心当たりが無い。思わず舌打ちをしそうになった。

 その時だった。崩れた瓦礫にシニストラが足を取られてふらりとよろめいたのは。
 反射的にデクステラは左手を出してシニストラの腕を掴んだ。何の気無しに。シニストラの視線がこちらへ向いた。
 瞬間、津波か嵐の中にでも叩き込まれたかのような勢いでその感触に襲われた。

 その感触―――つまりあの夜の、体を重ね、心を交わして、加速度的に何もかもが調和ヘ向かって駆け抜けていったあの時の感触に。

 実際にはほんの一瞬だったらしいそれが過ぎ去っても、デクステラとシニストラは目を見合わせたまま長い間呆然としていた。
 ようやくややあってから、デクステラが己の空の右手を見て、そうして掌を閉じ開きする。
 ずっと自分達を苦しめてきた齟齬は相変わらず自分の中にまだある。けれど過ぎ去ったあの感触は、今もシニストラの腕を掴む自分の左手に漂っている。
 ということは………。

 デクステラは再びシニストラと目を合わせて、シニストラの腕を取ったまま、けれどまた何も言えずに呆然と暫く立ち尽くした挙句、
「……じゃあ、近いうちに……行くから。」
 と、実に間抜けな発言をし、
「あ、はい…………はい。判りました。」
 と、シニストラもこれまた、GOTT関係者に聴かれたらESメンバーの威厳を疑われそうな気の抜けた返事をした。

 つまり自分達の関係には「定期的なメンテナンス」が必要らしい。

 ということに二人共々、思い至ったのである。

 どんな「メンテナンス」かは言わずもがな。


 現場を離れアイネイアースへ帰投してGOTT本局へ登庁し、局長室で特務完了の報告をする、その間ずっとデクステラは公人としての責務感から別のところへ気が逸れないようにするので一杯一杯だった。
 局長室にたまたま同席していたエクレールとリュミエールの反応からすると、とりあえず自分達はいつもと同じように振舞えていたようだが、エクリプス局長にだけは気付かれていたような気がする。そう考える事の根拠は無いけれども。

 報告が終わって本局前でシニストラと別れ、家への帰路を辿り始めた途端、公人の理性と私人の感情との板挟みで1秒でも早く終わればいいと思っていた任務から解放された途端、デクステラはそれまでと比べ物にならないほどの激しい嵐に襲われた。
 今夜だ。話し合わずとも双方が判っている。
 今晩、そう考えるだけで足先指先までの肌がびりびり痺れる。頭に血が上り、視界が白く明滅しそうなほどの激しい感情で我を忘れそうになる。そうして胸の辺りに、極上の甘やかな恋情がとろりと流れ込む。

 あの想い出だけでこれから先ずっと生きていける。
 そう思ったほど、ただ一度の夜を共にしたあの存在に自分は溺れた。
 だからこそだ。あんな想い出は一度だけだと思ったからこそ、今まで平常心を保って生きてこれた。
 それが不意に再び巡ってきた。前のように唐突に始まり無我夢中のまま終わるのならまだいい、ところが今度は双方が承知した「予定」として。
(しかもこれから「定期的」に?)
 その度にこんな気の遠くなるような激情に襲われるのかと考えたら、眩暈がより一層酷くなった。

 でも多分、嬉しかった。
 本当に嬉しかったのだろうと思う。
 おそらく彼のことを愛していたから。
 それを心の底から実感する余裕はとてもじゃなく無かったが。

 それがどうして、こんなことになったのか。
 正直なところ、よく覚えていないというのが本音だ。

 その夜のことをよく覚えていない。

 夜が深夜へ向かい始めた頃に家を出た。そしてシニストラのセーフハウスを訪れた。その瞬間瞬間での意識は清明だったはずなのに、後からだと全てが霧がかったようにあやふやにしか思い出せない。
 だが出迎えてくれたシニストラは――少なくともその時は――微笑んでいたと思う。暖かい気配と共に。
 だからデクステラは多少なりとも安堵して、そこから先へ足を踏み入れた、そのはずだった。

 異変に気が付いたのは、事がベッドの中へ及び、もう既にかなり愛撫を加えた後だった。
 情けないことだがそれまでは自分の感覚に夢中で、その時まで気が付かなかったと言う方が正しい。
 無我夢中だった。
 ここへ訪れるまで時間をかけて何とか平静を保つよう落ち着かせたはずの意識は、薄明かりの中の滑らかな肌に触れた瞬間あっさりと切れ、その後は暴走しそうになる体と精神を抑えるので精一杯だった。自分がどんな愛撫を加えたか、何を囁いたか、ほとんど記憶が抜け落ちている。
 ただこの行為がシニストラにとって歓迎し得るものであるかどうか確信がもてる状態ではなかったから、唇へのキス、それと「好きだ」「愛してる」「おまえだけだ」その手の台詞は避けた。だが可能な限り大事に、傷つけないように、心を込めて、慈しんで抱いていたはずだった。
 最初は体温だった。自分の腕の中で、自分の愛撫に応えるように火照っていたはずの躯が冷えているのに気が付いた。それから声。さっきまで艶やかに零れていたそれが、今は何かに耐えるように細く、苦しそうに。
 決定的なのはその表情だった。
 強すぎる快楽に苦しむというようなものとは掛け離れた、この行為そのものに責め苛まれるような苦痛の表情以外の何物でもなかった。
「……つらいか?」
 恐る恐るそう尋ねれば、強く首を振って否定される。だが愛撫すればするほど、細く切れ切れに息を殺して耐えるその様子は苦しさを帯びる一方だった。
 (嫌なのか………?)
 至福感で破裂しそうだった心に冷たいものが滑り降りる。だが考えてみれば当然かもしれなかった、誰が好き好んで同性に抱かれたいなどと思うものか。たとえそれが別ち難い絆で結ばれたパートナーであっても。
 唯一無二のパートナーであるからこそこんな屈辱的な状態に耐えているのだ、と考えれば、シニストラのこの反応にも表情にも全て合点がいった。
 パートナーだからこそ、その絆を――能力を――保つためのこの行為を赦されている。
 それ以上悪い状況は考えたくなかった。
 後は、なるべく苦しまないように。スムーズに事が済むように。そうして再び整えられたパートナー間の調和ができるだけ長く維持されるように。
 そのためにはどうしても要求しなければならないことがあった。
「……俺のことを考えろ」
 その中へ深く身を滑り込ませて息を詰めたシニストラの、耳元で囁いた。
 調和シンクロをとるための行為、互いの意識が互いに向き合っていなければ図りがたい。行為だけを強いて後に何も成果が残らないのだけは避けたかった。
「………俺のことを考えろ。俺へ…意識を向けて……」
 (直ぐ終わるから……)
 今だけ我慢してくれと、心の中で壊れた夢と共に呟く。
 その時こちらを見上げたシニストラの、哀しみを湛えた両の瞳だけは、その日の曖昧な記憶の中、こびりついたように意識から離れない。

 いかなGOTT・ESメンバーNo.1といえど、好きな相手のことには判断が鈍る。

 シニストラの側から見た事情はもっと単純だった。


 シニストラだってずっと好きだった。そして嬉しかった。ただ一度躯を交わしたあの夜、自分と同じくらいにパートナーへのめり込んでいた様子のデクステラが。
 あれ以来の日々の中、もう一度触れ合いたいと自分から申し出るほどの確信は持てなくとも、少なくとも嫌われてはいないと。だからこそ却って苦しい日々を送っていた。特にされる側は一人だとどうしようもない分だけ大変だし(何が)。
 自分たちペアに唐突としか言いようがない再度の必要性が生じたと理解した時も、この上ないほど酷く困惑はしたものの――嬉しかった。きっと。天にも昇る心地で。
 そうして迎えた夜だった。
 シニストラにしたって冷静にその時を迎えられた訳もなく、あまりの緊張と昂揚にその日の記憶は覚束無い。
 けれどあの瞬間の事だけは、忘れようとしても、例え忘れたくても、忘れられる筈も無かった。

 気が付けば、とてもよく見知ったような、気の遠くなるほど懐かしいような、あの褐色の腕の中にいた。
 腕はひと時も留まることなく、動く度に一瞬ごとり上がるような感覚を自分にもたらす。
 ひっきりなしに自分の口から零れる声は自分のものと意識するのもいたたまれないような声音で、必死に抑えようとするその努力もデクステラの僅か一動作に容易く崩れ去り、微かだがひときわ熱い声が新たに流れていった。
 シニストラが羞恥に身を竦めた、その瞬間だった。
「……………そんな声を出すな………」
 デクステラが絞り出すような声で、呻くようにそう呟いたのは。

 我に返るなどという生易しいものじゃなかった。
 凍り付いた視界で目の前のパートナーを見れば、その目こそ閉じられていたものの、眉間に深く皺を寄せ。歯を食いしばらんばかりの表情で。

「………すみません…」
 掠れて震える声で、そう応じるのがやっとだった。

(どうしよう。どうしよう。調子に乗り過ぎた………。………嫌われた……)

 丁寧な愛撫に火照っていた身体が一瞬で冷え切る。夢の中に居るようだった意識から何かがばらばらと次々に剥がれるように墜ちていって、ただ闇色をした鮮明な思考だけが脳裏に残った。
 必要に迫られたから。だからパートナーは已む無くこういう行為に及んでいるのに。別に好きでやってるわけではないのに、自分は勘違いをした。好意を抱いてくれていると。でもそんなものは有り得なかった、現にあの夜から今日まで、デクステラにそれらしい素振そぶりは一度もなかったではないか。
 それなのに自分は思い違いをして、情けない姿を見せて。疎んじられた。務めを果たそうとしているパートナーに嫌な顔を、思いをさせた。

 次々と流れていくシニストラの思考を他所に、パートナーの行為は絶え間なく続いている。
 隙間を埋めるように身体を寄せてくる体勢の所為で、もう今はその表情が見えない。

 彼は優しい人だから、たとえそんな自分に呆れていても、その愛撫は丁寧で優しくて。自分に負担を掛けないようにと。
 あまりに優しくて。優し過ぎて、却って辛い。
 声を殺して抑えるのも。心を殺して秘めるのも。
「……つらいか?」
 再び意識が霞み始めた中でそう訊かれて、強く首を振って否定した。あなたの所為ではないから。自分が望み過ぎたから悪いのだと。
 そうしてやがて、緩やかに身体を開かれて。容赦なく優しく侵食されてゆく感覚に息を詰めたら、あの深い声が耳元で囁いた。
「……俺のことを考えろ。俺へ…意識を向けて……」
 その言葉の意図する所は正しく理解できた。パートナー相互の調和と同期を図るため。自分たちの能力に再び共鳴をもたらすため。この上なく正確に理解できる、けれども。

 強く瞑っていた目を恐る恐る開いて、自分に覆い被さるパートナーを見上げた。こちらを見詰めていたデクステラの紫色の視線が絡む。
 軽く寄った眉根、薄く汗を刷いた褐色の肌。注がれる視線は変わらず優しい。
 こんな時でも、とても綺麗な人だった。
 ふと緩く抱き寄せられて、深く侵食され、無言で要求されて、必要とされる分だけ応えながらも身が竦んだ。

 意識を寄せ逢わせなければならないのに、心を寄せることは許されない。

 それがどうしようもなく辛かった。



 朦朧と明滅する意識の中で自分が口にした言葉など、当然デクステラは覚えちゃいない。
 そしてシニストラも、その台詞を「(あまりに艶めかし過ぎて思わず理性が飛んで乱暴しそうになるから、)そんな声を出すな」とそこで正しく解釈出来るようなら、そもそも初めからここまで話がこじれちゃいない。


 かくして当人同士では修復不可能なレベルの究極的な擦れ違いがここに完成したのだった。



◇        ◇        ◇



 シャワーの水滴と苦い想いを振り払い、デクステラがバスルームから出て来た時、しなやかな肢体はまだベッドに深く沈んでいた。
 ともすれば青褪めたようにも見える身体と、不自然な形に投げ出されたままの腕が濃い疲労の度合いを如実に表している。普段ならば緋色の髪のパートナーに気を使って疲れた様子は見せない気丈な人だが、今日ばかりは取り繕う気力も残っていないようだった。
 蒸しタオルを用意してベッドに腰掛け、軽く身体を拭いていくデクステラに、精一杯の様子でほんの僅か身じろいで薄く青銀の眼を開き、
「………済みません……」
と、掠れた微かな声で心底申し訳なさげに呟く。
 応じるデクステラは無表情のまま軽く頭を振ることしか出来なかった。なんといっても刺激が強過ぎ。事後になってもしどけない格好でされるがままのシニストラなど、それなりに身体を重ねてきたデクステラにとってもほぼ初めての体験だ。タオルを二重三重にしても手の下の感触はまるで直に素肌に触れているような錯覚を覚える。
 そこそこに拭き終え、無言のままその身体の上にシーツを引き掛けた。
 綺麗な陰影を作るその身体を無意識に労わり擦ってやりたくなる衝動を必死で抑え、立ち上がる。
 じゃ、と小さく投げ掛けた言葉はデクステラ自身が嫌になるくらい殺風景で他人行儀だった。フォローしようにも帰りの言葉を言った後ではその場から立ち去るだけの行動の余地しか残されていない。
 後ろ髪を引かれる思いで背を向けて歩み去れば、万全のセキュリティ機能を備えた玄関ドアがこれでもかと言うほど堅牢に引き返す道を閉ざしてくれた。


 ドアを隔てた双方の空間で、相手側に届かない深刻な溜息が深く長く流れる。


 では、先にドアの内側の様子からどうぞ。


(………………)
 成されるがままにパートナーからシーツを掛けられ、立ち去られた時の状況のままから微動だにも出来ず、ただただひたすら自己嫌悪に陥る人物が約1名。

 平常心で、穏やかに、単なる業務の一環、単純な手続きとして、遂行しようと。
 緋色の髪の彼が来るまで何度も何度も何度も自分の心構えに繰り返していた、その筈なのに。

 …いつもより強く感じて。……躯を交わしたのが久しぶりだったから?
 とにかく彼が嫌がった情けない声だけはもう二度と出したくない、必死で耐えたつもりだけど…自信がない。記憶が曖昧だし……
 挙句の果てに体力を使い果たして彼の手を煩わせるなど。
 だいたい今日の特務にしても、彼は無傷、自分は左上腕骨骨折。ESメンバーとして、というより彼のパートナーたる身としてあまりに酷い戦績だ。
 自分はこんなに柔弱やわだったのか。心底嫌になる……

 漆黒虚無の深宇宙ディープスペースよりも深い溜息を再度いた。
 ほの薄く灯りを落とされた室内の深夜の大気が僅かに振動し、そのまま無為に過ぎ去った後で、ぼんやりと思い至る。

 いつか…終わりが来るのだろう。
 互いの能力が互いの存在そのものに絶対的に依存している自分たちであっても、こんな不自然な関係が、いつまでも続きうるはずがない。あまりにも明白な事実が恐ろしくて、未来を見通そうと試みたことすらない。
 こんな自分に愛想を尽かされるのが先か、こんな関係に終止符を打たれるのが先か。
 それとも、耐え切れずに自分から最後となる言葉を告げてしまうのが先か。

 …あなたのことが好きなんです、と。



 では引き続きまして、ドアの外側の様子を御覧ください。


 雨も止み、夜というにもまだ早い、ほんの入り端の時間帯、店もまだちゃんと開いていて賑やかな人々の歓声の合間を、姿勢はいいのに薄暗い背中が歩いてる。心なしか緋色の髪までじっとりと闇の色。
 大事なパートナーに負担を掛けたくないだけなのに、と、思ったよりも盛大に吐いた溜息は、雑踏にも掻き消されず自分の聴覚系へ戻ってきて、ちくちくと己の良心を刺激した。
 …嘘。知っている。自分が見過ごしたこと、自分がやったこと。
 行為中の、あの辛そうな顔を見たくなくて、ここ数ヶ月のパートナー間の齟齬に気付かない振りをした。無理矢理に特務を遂行し続けて、結果がとうとう今日のシニストラの結構な負傷だ。
 仕方なしにパートナーのもとを訪れてみれば、血の気も薄いくせにぎこちない笑顔を作ろうとするひとに、晒された素肌の左腕に残る無残な痣に、自分の無力を突き付けられて、そして煽られた。
 あの日以来負担を掛けたくはなかったから、どこにどう反応するか、どこが感じるかを密かに調べあげて、躰の隅々まで徹底的に知り尽くして、いつもはセーブするために利用するそれを、今日は素知らぬ顔でことごとく使い倒した。
 少しでもい顔をしてくれればと思ったけれど。
 返ってきたのは、訳も知らずにあまりに感じすぎているらしいことへの狼狽、そして息を詰めて、声を押し殺して、薄く涙を浮かべて、強く顔を歪めて、必死に耐えるその姿。
 そんなにも、そうまでしてまで、自分に身を委ねるのが嫌なのかと。
 絶望に近い心情とともに行為は終わった。

 一時的に再び同調を得たとはいえ、そう長く続かないのは目に見えている。擦れ違いが大きくなればなるほど共鳴の期間は短くなり、行為の頻度が増えて、それがさらなる擦れ違いを生む。完璧なる悪循環。
 だからといって、はいさようならと袂を分かつわけにもいかない。生体増幅機構ヒューマニック・アンプリファイア・システムは一対の能力なのだ。どちらか一方が手放せば、もう一方の能力も跡形もなく消滅する。
 …それを口実にしている自覚は、デクステラには十二分にあった。
 手放したくないのだ、あの人を。ただひたすらに。
 けれどこれ以上あんな哀しい顔を見るのは、もうたくさんだった。

 手詰まりに深く暗い天を仰ぎ見て、再度の溜息を吐く直前、視界の端で小さな光を目にした。
 街中を抜けて光の喧騒が消え、携帯端末の着信光にようやく気づいたのだった。
 端末を開いて内容を確認する。

「愛しのデクステラちゃんwwwあなたたちが研究所を旅立ってからそろそろ1年になりますね。相変わらずシニストラといちゃいちゃしてますかwww今度出張でアイネイアースに行くのでアフターケアがてら顔見せしる。シニストラにも声掛けよろしく。ノロケ話楽しみにしてまーすwwwwwフォルシュングート」

 沸き立つ殺気で、マジ殺す、と思わずスラングにつられる。最悪すぎるタイミング。
 黙殺してメッセージを消去しようとしたところで、ふと、思い直した。

 『アフターケア』

 …このままフォルシュングート研究員の申出を無視したところで、自分とシニストラの関係が改善するわけでもない。それどころか、このまま放置すれば指数的に悪化の一途を辿ることは火を見るより明らかだった。
 仮にも自分たちの能力を開発した研究員の一人だ。詳細を話すつもりはないが、なにかヒントになるようなことを持ってはいまいか。
 天の助けというより悪魔の囁きという悪寒がしたが、耐え切れずに短く返信を送った。

「相談したいことがある。シニストラには内密に。デクステラ」




「やっほー久しぶり! でなになに、離婚危機なの!? そんなの聞いてないよ〜なんでなんで!!? んもー話訊くの超楽しみにしてたんだよー!!!」
「だから言ってるだろ、絶対デクステラのヤり過ぎだって。いつか絶対そうなると思ってたんだよな〜」
「じゃなきゃあれだな、デクステラの嫉妬妄想。で、シニストラに愛想尽かされたと。俺の作ったニューラルネットシミュレーターによるとだな、」
「その他に研究所内で挙がった予想としては、『勃たなくなった』『GOTTがデクステラより優秀な候補者を発掘してきた』など。シニストラに対するネガティブ意見がない所と、デクステラがシニストラに飽きたって意見が皆無なあたりに二人の人柄が偲ばれるねぇ。」
「あっおねーさん、えーっとこれとこれとこれ追加! あ、お支払いはGOTTのツケでよろしくね〜! で、どれが正解?」
「……もういい」
 完全に悪魔側だったわけだが、いまさら後悔してももう遅い。それでも迂闊な返信をした、過去の自分を呪わずにはいられないデクステラだった。
「こんなに大勢で来るとは聞いてない」
「一人で行くとも言ってないっしょ」
 もはや貝のように口を閉ざして自棄酒をあおるデクステラに、大半の研究員が事情聴取を早々に放棄して勝手に出来上がっていく。
 研究する側とされる側だったとはいえ、それなりに長い付き合いだったのだ。このくらいのことを言外に承知する程度には。(じゃあどうして多人数で押しかける。)
「でもさぁ、ほんと意外。お前らに行き違いが起こるとは露ほども想定してなかったよ。幸せそうなお前らをからかいたかったのに。」
 辛うじて話題にしがみつくフォルシュングートが、半ば独り言のようにデクステラに話し掛ける。返事を期待されていないのはわかっていたから、デクステラは手酌で入れたアルコールを再度呷った。
 そう思うだろうな、と思う。つまり彼らは、シニストラとも長い付き合いであったのだから。
 シニストラのデクステラに対する尊崇が、この上なく強く揺るぎないものであったこと。その笑顔の中にあった、一片の曇りもない絶対的な信頼感。
 それがどうしてこうなってしまったのか。
「シニストラ本人に訊かねぇの?」
「訊いた結果が破滅なら、軽々しく聞けるわけがない」
 思っていたより深刻な状況を察して、フォルシュングートがしばし絶句した。
「……でも、聞きたいんだろ? シニストラの本音」
「…そうだな。」
 たとえそれが、罵りの言葉であったとしても。永遠の別離の言葉であったとしても。それがシニストラの本心からの言葉であれば、どんなにか愛しく想えるだろう。
 そして言いたい。お前が好きなんだと。それを告げることこそが、決別と同義になったとしても。
「じゃ、訊くしかないだろ。で、どうにもならないことなら聞かなかったことにする。」
「そんな都合のいいことを…」
 聞かなかったことにする。都合のいいこと。
 脳裏に走った。心当たりがある。
 こんなことに職権を濫用するのは気が咎めるが、GOTTならなんとかなるはずだった。
「そうか。判った。…ありがとう。」
 一転して素直に礼を述べるデクステラに、フォルシュングートは目を見開いたが、少し考えてからおもむろに腕を組み、深々と頷いた。
「そうか、判った。つまりお前、セックスが下手だったんだな。もしかすると、すげぇ小さいとか」
 顔でなく頭を殴ったのが、せめてもの手加減だった。


「……何ですか、これは?」
 不意を付かれたように、あどけなく尋ねられた。
 GOTTでの業務終了後、話がある、とシニストラに告げた瞬間、この世の終わりに遭遇したような強張った表情をされた。頼りなく笑うことしかできなかった自分は、きっと酷く情けない顔をしているに違いない。
 自宅へ誘うと、青褪めた顔のまま、少し心許ない足取りで素直に付いてくる。まだ空は青く明るい。
 室内に導き入れた後で、黙って掌に2つの揃いの小瓶を差し出した。中には透明な液体。
 シニストラの問い掛けにデクステラが答え澱んだ、その沈黙に促されたようにその人がこちらを見上げた。視線が合う。空色の綺麗な人。
「お前、俺に言いたいことがあるだろう」
 単刀直入に告げる。びくりと体を震わせて、目に見えるほどシニストラが狼狽えた。
「俺にもある。…だけど何があっても、俺達は離れる訳にはいかないから」
 違う。離れたくないから。
「だからこれを用意した」
 空いている手に瓶のひとつを取り、シニストラに差し出した。無意識の動作で受け取りながら再び尋ねられる。
「これは…」
「逆行性の健忘薬。飲用してからきっかり30分後、それまでの30分間の記憶をすべて失くす。」
 驚きにシニストラの唇が開いて、言葉を紡がないまま、その意味の了解に伴って、再び閉じられる。きゅ、とシニストラの掌に握り締められた小瓶から音がした。
 GOTTから払い出した薬剤。
「俺は、お前の言葉が聞きたい。お前の本当が知りたい。…だけどお前が、それを知られたくないと思っているのも知ってるから」
 そこまで言うと、瓶の蓋を開けて一気に飲み干した。軽く放った瓶が音もなくラグに沈む。
「だから、聞かせてほしい。お前の言葉を。」
 …俺にも言いたいことがあるから、できればお前も、と言い終わらないうちに、シニストラが薬剤をすべて飲み下した。
 俯いて薄く濡れた唇に、一瞬状況を忘れて欲情を覚える。
 覚悟をしなければならなかった。30分の絶望に耐える分だけ。
 こんな関係はもう嫌だと、抱かれるなんてごめんだと、パートナーシップも終わりにしたいのだと、何を言われてもただ謝罪するしかない。
 いや、本当の意味で罵られるのは自分の言いたいことを伝えてからだろうか。
 俺は好きだった。いつも、ずっと好きだった。お前がどんなに嫌がっても、お前を抱きたかった。お前を抱いて、辛かったけど、嬉しかった。

「忘れてください」
 その言葉の後、視界の下半分が青銀色に覆われた。身体の前面が、恐ろしく暖かくて心地良い。
「あなたのことが、好きなんです」
 愛しい人が、泣いて、自分に寄り添っていた。

 反射的に両腕でその身体を抱き留めて、冷静に状況を把握しようとして、…全く、ひとかけらも理解できなかった。
 ので、思わず言ってしまった。
「はぁ?」と。

 びくりと震えた身体が素早く身を引いて、思い切り傷ついた泣き顔からみるみるうちに涙が決壊しそうになる。

「待て、待て待て待て! 違う、そうじゃない!」
 辛うじて抱き込んだままの腕の中に慌てて引き戻して、顔を寄せて囁いた。
「どういうことだ? いつも抱いてた時はあんなに辛そうだったのに…」
 唇が触れそうになるくらい近くで、空色の瞳が最大限に見開かれる。
 三瞬ほど言い澱んだ後で、覚束なげにシニストラが囁き返した。
「…あなた、ですよね? そんな声を出すな、って言ったの……」

 ぱちん、とデクステラの記憶がはぜた。
 言った。確かに言った。あの夜、まだ幸せだったあの時に。
 幸せすぎるのが辛くて、つい言った。
 その日から積み重ねたすべての理不尽が、一瞬で氷解していった。

「ごめん」
 それだけを言ったところで堪らなくなって、すぐ近くにある唇にキスした。ずっと避けてきて、ずっとそうしたかったことをした。
 狼狽える躰を強く抱き締めて、重ねた唇で時間をかけて宥める。
「好きだ。ずっと好きだった。声を聞いたら乱暴しそうで、つい言った。ごめん。愛してる。」
 なぜ、を問いかける瞳に、唇が離れた瞬間そう畳み掛けたら、腕の中の躰が一気に熱を帯びるのが判った。幸せすぎて寒気がする。

 そこで本当に、寒気がした。身体が硬直する。
 動かしづらい身体をゆっくり離して、真っ白になった脳裏になんとか理性を取り戻そうとした。
 シニストラも一転、顔面蒼白だった。気づいているらしい。

「何分くらい…経ったと思う?」
「15分…か、20分くらい…でしょうか」

 取り返しの付かないことをしている。飲んでしまった、あの薬。
 タイムリミットが来れば、ようやくの思いで手に入れたこの幸福の絶頂がすべて泡沫うたかたとなって記憶の埒外に消える。
 そうして再び、あの悪夢のような擦れ違いの日々の再開。

 デクステラが意味もなく叫びそうになったその瞬間、
  ♪ぴんぽーん
 と、インターフォンが鳴った。

「ちゃーす、GOTTさんからのお届け物でーす。えーと、きっこうやく?」

 拮抗薬。
 対となる特定の薬理構造に、文字通り拮抗して中和作用をもたらすもの。



 この上なく賢明な金髪のGOTT局長か、はたまた遣り手の秘書官に、心底感謝するより他になかった。





 夕暮れの青から赤への無段階のグラデーションが、空を染めつつあった。
 ソファに座ったまま、ぐったりして動けない二人の上にも色彩の波が注ぐ。

 慌てて開封した拮抗薬を二人して飲み干し、本当に効果が打ち消されたのか、じりじりしてその時を待った。
 時間になり、5分が過ぎ、10分が過ぎて、記憶の連続性に異変がないことを恐る恐る確認し、そうしてやっと安心したら、もう気力が抜けてしばらくの間呆然とするしかなかった。
 デクステラはようやく目を開けて、強く目を射す西日に再度瞼を細め、それから自分の隣を改めて見直す。
 シニストラはくったりとソファに沈み、まだ深く瞳を閉じていた。目尻に涙のあとが残っている。
 可哀想なことをした。自分の一言で、今まで抱かれながらどれだけ辛い思いをさせたのかと胸が痛む。
 痛むのは、たしかに嘘じゃないけれど。

 (あなたが、好きなんです)
 (忘れてください…)

 これ以上、忘れる訳にはいかなかった。
 確かめたい。もう二度と間違えないように。今直ぐに。
 腕の中に抱き寄せて、驚いて慌てて見開かれた空色の瞳と視線を合わせる。
「あの、ええと、なんだかさっきは酷く取り乱した気がするので、やっぱり忘れてもらうわけには」
「嫌だ」
 言語道断なことを言う唇を唇で塞ぐ。
 少し身じろいだ躰は長い口付けにやがて熱を帯びて、恐る恐る、ゆっくりと自分の腕の中に身を預けた。研究所の中での、あの初めての夜のように。
 もう忘れる訳にはいかないのに、幸せ過ぎて、また意識が途切れそうになる。
 戸惑う躰を多少強引にソファへ押し倒したら、
「………声、出ても、…いいんですか」
 消え入りそうな表情と声で、そう囁かれた。もう耐えられない。
「聴かせて」
 弱いと知ってる腰から背中を一気に撫ぜて、早速最初の音色を堪能した。






 体の隅から隅まで知られている相手に、
 もはやなんの障壁も手加減もなく、
 夕暮れから from dusk 夜明けまで till dawn
 その思いの丈を一心に注がれると、どうなるか――


 朝焼けの彩りの中、今までとは違う意味でぐったりとベッドに沈み込むシニストラは、つくづくとそのことを思い知ったのだった。