■ 休日

「じゃあ、今から行きますね」
 空色の姿の綺麗な顔がモニターの向こうで優しく笑って、サイドテーブルの上の映像電話ヴィデオフォンが切れる。
 ブラックアウトした画面をしばらく見続けた後、俺はソファに大きく身を投げ出した。
 だらしなく手足を伸ばしたまま、視線の先の白い天井をぼんやり眺める。
 胸の上で手を組んで、それから目を閉じた。

 今しがた消えたばかりのあいつの姿を、ひとつひとつ、……その姿を意識でなぞって、目の前でその完璧な複製レプリカの彫刻か粘土細工を作り上げるように、ひとつひとつ、思い出していく。

 色素の薄い綺麗な髪。割と量が多いから額や頬にすぐ落ちかかる。触ればさらさらと手触りが良いし、……その向こうの額や頬に触れられる。
 白い肌。きめの細かい手触り。暖かい肌。優雅なカーブを描いて唇や首筋に続いていく。
 片手の親指で唇をなぞって、もう片手を首筋に這わせれば、あいつはくすぐったそうに、…そしてとても幸せそうに、俺に笑いかける。
 背中と腰を強く引き寄せて、全身を密着させるようにして抱き締める。

 ………もうすぐ逢える。
 もう少ししたら、あの奇跡のような存在を、俺の生身のこの手で、この身体で実感できる。その暖かさも。鼓動も。笑顔も。
 もうすぐ逢える。
 もうすぐ。
 もうすぐ。

 良い天気の、いつもの平和な休日だった。



 目を開けて天井から視線を下げる。
 いちおう部屋の中を見渡してみるけれど、シニストラが来るまでに用意しておく物もこれといって無かった。見慣れた自分の部屋はモノクロを基調に色をまとめていて、床の上は適当に物が片付いて、適当に物が散らばっている。
 何度も互いの家を行き来して、いまさら特別を気取るような間柄でもない。それなのに。
 あいつが来る。あいつを待つ。
 その間何が出来るかといったら、何も出来ない。出来るわけが無い。
 ただ早く逢いたくて逢いたくて、もうすぐ逢えるあいつのことで頭が一杯になって、何もやる気が起きないままただ時間の過ぎるのを待つ。
 早く時間の過ぎることを祈る。1秒でも早くあいつを抱き締められるように。
 煙草なんていうアームブラスト監査官のようなAD時代の悪習は持ち合わせていなかったから、テーブルの上のミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、キャップを捻って蓋を開けて飲んで、再びボトルに蓋をして、テーブルの上に戻して。そんなことをしながら間を潰す。


 俺たちが一緒に暮らしていないのにはいくつか理由があった。
 互いの生活に干渉し過ぎないとか、世間的な体面だとか。
 けれどそのどれもが些細な理由で、結局のところはなんとなくそうしているというのが一番正しいところであるようだった。
 こうやってあいつが俺の家に来るのを待つ、その間の焦れったいようなこんな時間も、決して俺は嫌いではなかったし。
 けれどさすがにこの間は俺も激怒して、もうおまえを独りにしない、一人では暮らさせない、一緒に住む、としばらくの間は言い張ったものだが、本人もかなり反省していたらしく、消沈した顔ですみませんと言われるとそれ以上強く言い募るのも気が引けて、結局うやむやのまま話は立ち消え、お互い元の生活に戻っていた。
 そして休暇の日はほとんど必ず――前日に夜を共にしていなければ――、どちらかがどちらかの部屋を訪れる。そういう習慣になっていた。
 それももう随分と前からの習慣なのに、こうやってあいつを待つ間の、俺の意識の中がその存在だけに占められていくような、その熱い感触や鼓動の高鳴りは、今もって消えることも慣れることも無い。


 来た。


 いつもシニストラがこのマンションの1階のエレベーターホールに来たあたりでだいたい判る。足音や物音でというよりは気配で――というより、ESメンバーのパートナー同士に起きる能力の干渉で感じているらしかった。意図して探れば俺たちの能力の性質上、あいつが何処にいても判るが、近くにいればことさら意識しなくてもその存在を肌で感じる。
 エレベーターが1階に降りるまで、平均で約12秒。ドアが開いてあいつが乗って、上がってくるまで約15秒。エレベーターから降りる気配。
 このフロアのエレベーターホールから、俺の部屋のドアの前まではそう距離がない。あいつの歩幅で約9歩。その頃になってくると生身の耳でも足音が聞こえてくる。あいつみたいに身のこなしの佳いやつは、足音にもそれが出る。
 俺はそろそろ立ち上がる。玄関に向かう途中でチャイムが1回鳴る。それから指紋照合の電子音。ちゃんとシニストラの分も登録してあるのに、親しい仲にもの礼儀とでも思っているのか必ず先に律儀にチャイムを鳴らすんだ、あいつは。
 俺が玄関に立って、一瞬遅れてドアが開く。
 ジーンズに白いシャツのシニストラ。俺の姿を見てにこりと微笑う。
 もうどうしようもなくなって、腕を引き寄せてドアが閉まるのももどかしくその躯を抱き締めた。
 たまには普通に出迎えようと、毎回のように思っているのに。今日も失敗した。
 腕の中に収めてしまえば、嬉しそうに綺麗に微笑う暖かい身体の誘惑には逆らえない。
 キス1回。


 触れるだけの口付けはすぐ離した。一度にすべてを楽しんでしまうのは勿体無さ過ぎる。
 しなやかな躯を抱き締める腕からもとりあえず解放して、両手で白い頬を包んだ。
 色素の薄い空色の虹彩。その中心の瞳だけが宇宙の果ての深遠の色をしていて、俺の意識を吸い込むかのように優しく俺を見詰める。
 暖かい微笑を作る顔の形を、俺はひとつひとつ指でなぞっていった。額の形。眉の角度。柔らかい瞼を親指で撫でたら、シニストラは甘えるように目を閉じた。
 伏せられた長めの睫毛。指先で梳くようにしてそのカーブを辿る。形のいい鼻。目の下の僅かな窪み。そこに指を滑らせる。甘い隆起の柔らかさだ。
 両頬を包んで、9本の指でその形を記憶するように感じ取る。余った右手の親指は、桜色の唇の上へ緩やかに滑らせた。
 僅かに開いた唇の形を何度も辿っていたら、シニストラのゆっくり吐いた暖かい吐息が指先に触れた。


 もっと知りたいと思う。
 もっと近いところで。もっと正確に。
 目の前の、この奇跡のような存在の、何もかもを。

 両頬に落ちかかる髪を梳いて、両手で顔を包んで、柔らかい唇の上に自分の唇を重ねた。
 さらりとした暖かい肌触りを触れ合わせた場所で感じながら、その甘い形に沿って自分の唇を撫で滑らせる。


 キスというのはわりと合理的な本能だと思う。
 脳の感覚刺激を受け取る領域の中で、指先と同様、唇の占める領域は広大な割合を持つ。いわゆるペンフィールドの小人というやつで、……対象をもっと詳細に感じ取りたければ唇を使えということだ。
 そうしてそれを証明するように、こうやって唇でその桜色の唇を、その柔らかさを辿れば、その感覚は直接脳の中へ痺れるように響き渡る。
 同じように感じてくれているらしいシニストラの、触れ合わせるだけの口付けの焦らされる感覚に耐える、その微かな震えが伝わってくるともう堪らない。
 強く抱き締めて、深く口付けて、それまでとは違う粘膜のぬめりを全て感じ取ろうと、何度も深く唇を動かして絡め合わせた。
 シニストラは急激な深い口付けの息苦しさに溺れそうになりながら、それでも健気に俺の行為に応える。口付けの合間の息継ぎで漏れる熱い吐息と、俺の腕の下あたりのシャツを必死で掴む仕草が愛しい。
 キス2回。


 そうしてたっぷり数分は味わった後にようよう唇を解放すれば、すっかり熱を帯びた細い躯は俺の腕の中で力を失ったようにくずおれかけるし、俺は俺で唇だけでなく開いた胸元からその向こうまでを全身で感じたくなって仕方なくて、そのままベッドの中に引きずり込む日もままあるが、そうするとその日の休日1日が台無しに、たとえば急に思いついて映画だのドライブだのに出掛けたくなっても(主にシニストラの方が)到底無理な状態になるから、とりあえずこの場は欲望を抑える。
 抱き合うのは、夜でも出来るし。ゆっくり。
 しっかり立てないシニストラを両腕で抱え上げた。普段より少し軽い。この間のあれで減った体重がまだ完全には戻ってない所為だ、腹が立つ。
 とりあえずソファのほうへ向かって、シニストラを抱えたまま腰を下ろして、膝の上であいつの躯を囲い込むようにして抱き抱えて、その体勢にすっぽり馴染んで収まるシニストラが愛おしくて、我慢できなくて3回目のキス。


 目を閉じてキスを交わす俺たちの周りで、微かな閃光がぱしりぱしりと音を立てて小さく弾けている。俺たちのエニウェア、ウェネヴァの能力の元となる、原子よりも遥かに小さい素粒子サイズの微小ブラックホール、それが形成されては直ぐに蒸発していく、その時に出来る小さな小さなエネルギーの花火だ。
 特殊能力を持った者は、互いのパートナーに対し、必要以上に立ち入ってはならない。能力の干渉頻度が高い場合、いずれかがもう一方の能力に飲み込まれてしまう可能性が極めて高い。
 ESメンバーそれぞれごとにその実際理論は異なるが、俺とシニストラの場合、その言葉の意味するところはこの小さなブラックホールの操作を誤る危険性として顕著に表れている。わずかに俺たちの干渉頻度が高くなるだけで――つまりは俺が、あるいはシニストラが、パートナーと一つになってしまいたいと望むだけで――この小さくて貪欲な怪物はたちまちその質量を増し、加速度的にあたりのもの全てを飲み込み、パートナーどころかこの惑星アイネイアースごと、ウェヌス星系丸ごとすらまでもがただ一点へ、時空の特異点へと押し潰されてしまう。
 俺たちが互いにたった一人の半身を手に入れて、時間と空間とを操る特殊能力を手に入れて、まだそのどちらにも慣れなかった最初の頃はそのあたりの加減が判らず、感情を高ぶらせては暴走しそうになるこの能力に、本気で肝を冷やしたことも何度かあったりしたものだ。
 けれど今となっては、この小さな花火たちは、俺たちの能力と感情が程よく良い具合に干渉している、その心地良い調和を示す祝砲のBGMになっている。
 俺もシニストラも、もう子供ではなくなったから、互いが互いであること――二人が一人ではなく、二人で在ることこそに互いへの愛惜を見出すのだけれど。
 だからこそ、特殊能力を持つESメンバーの俺たちであっても、愛し合ったり抱き合ったりということが普通に出来るのだけれど。
 それでも俺のほうは、ややもすると過干渉に……何もかもをかなぐり捨ててあいつとひとつになりたいと願うことが時折あって、その都度それに対するバランスを上手く取っているのは、悔しいけれどもシニストラの方であると認めざるを得なかった。

 互いの身も未来もどうでもいいというくらい、形振り構わず俺を求めるシニストラがたまには見てみたいと、少し寂しく感じないこともないけれど。
 唇を離して目を開いて、少し上気した顔の、綺麗な色素の薄い空色の瞳で俺を見て微笑う腕の中のシニストラに、それだけでいいと思わされてしまうのだから仕方がない。
 そうして再び口付けて、軽く、深く、もう数え切れないくらいのキスの雨。






 俺もシニストラも、だらだら無意味に音と映像を流し続けるTVテレ・バーチャルはあまり好きでないから、スイッチが入っていることは殆ど無い。
 家で好きに時間を過ごしている時は、だいたい二人とも本を読んでいる。
 けれど読書の好みは俺とシニストラとで違っていて、俺は写真集や科学系、技術系の雑誌を、シニストラは随筆や古典文学を読むことが多い。
 さりとてお互い、パートナーからは離れがたくて。

 ソファに座る俺の、膝の上にはあいつの背中。そして空色の髪。つまりは俺の膝の上で、ソファに横になるように腹這っているシニストラ。
 俺は片手に本を持ち、もう片手で見えない先のシニストラの顔の輪郭を辿る。
 文庫本を広げるシニストラが、顔の上をなぞり続ける俺の手を時々空いた片手で捕らえて口付ける。手に触れる柔らかい感触の、唇の形で奴が微笑っているのだと知る。
 同じ体勢に身体が凝れば適当に体勢を変える。べったり身体をくっ付け合って互いの肩越しに本を読んだり、本を持つシニストラを俺の腕の中にころんと丸く収めてしまったり。膝枕もする、どちらがどちらにも。
 お互いに本を読むという作業は中断しないけれども、片手は――少なくとも俺の片手は――必ず相手の肌の上を辿り続ける。
 シニストラはその俺の指に手を重ねて、嬉しそうに微笑う。

 意思の力、精神の力が物理的、肉体的作用を引き起こす、と。
 それは第七門セブンスゲート研究所で学んだことだったけれども、同時にもう一つ知ったこともある。
 その逆もまた真なり、ということだ。
 俺たちの能力も、思考も、この俺たち自身の身体から生まれ出ずるものであるから、当然その中身は身体的要素に依存する。相手の身体を――物理的存在としてのパートナーの姿形を正しく知ることは、相手の思考を、能力を、より正しく、深く知ることと直結するのだと。
 簡単な話だ。つまりはこうやってシニストラに触れて、顔の形だとか肌触りだとか、そういうものに直接触れていると、シニストラの能力がどう働いているか、シニストラがどんなことを考えているか、感情の動き、調子の良し悪し、そういう言葉にしきれない微妙な感覚的なものが、まるで形となってそのかたち、大きさ、温度、それらを手に取るようにしてよく知ることが出来る、そのことを身に沁みて実感する。
 この間の任務に出る前後は思い返せばそういう習慣を少し忘れていた頃で、意識することもなく触れ合うことが少なくなっていた時期で、任務が終わって奴が俺を怒らせた、その時に触れたあいつの躯がまるで全然知らない人間のように遠くて曖昧になっていて、俺が奴の体調も思考も何も判らなくなっていた、気付かなくなっていたことを嫌と言うほど思い知らされてかなり愕然としたものだ。
 そんな風に愚かになっていた自分にかなり強くショックを受けて、俺はそれ以来、二人だけでいる時は絶対にシニストラの肌から手を離さないようにしている。


 ……たまにやりすぎるけれども。
 というか、今日も今日とて?

 俺は片手でシニストラの細めの肩を抱き抱えていて、回した腕で指先はそのまま首筋のあたりを撫でていて。
 無意識に手を動かしながら、本の内容に気を取られていたら、軽く跳ね反った腕の中の火照った躯に我に返って。
 気がついたら俺はシニストラのシャツのボタンを半分以上外していて、胸元のかなり服の奥の所まで愛撫していたところで。
 わずかに紅潮した頬と少し潤んだ眼で、シニストラが軽く俺を睨み付けている。

 そんな表情も凛々と綺麗なシニストラには、欲情よりも愛しさのほうが先に立つ。

「悪い」
 俺は笑って、手にしていた雑誌ネイチャーを放り出して、両手でシニストラの身体を思い切り掻き抱いた。はだけた胸元の肌の熱さが愛おしい。
 なにやらむぐむぐ言っていたシニストラの文句は、あいつの顔を埋めさせた俺の首筋で全部かき消してやった。
 艶やかな空色の髪を俺が梳き始めれば、軽く抵抗していた身体は、すぐにしっとりと落ち着いて俺の身体に馴染む。するり、と、そんなところまで優雅な動作のシニストラが本を横に遣って手放した。
 猫のように首筋の髪を掻き上げてやる愛撫は、こいつが大好きな愛され方のうちのひとつだった。

「今日の予定はどうする?」
 ぼちぼちと昼も過ぎかけていて、どこかに出掛けるなら、そろそろスケジュールを決めてしまわないといけない時間だった。
「あなたはどうしたいですか? デクステラ」
「そうだな………」
 腕の中のシニストラの言葉に、第二首都コルキアこのあたり周辺の今日の行事予定を思い浮かべる。
「……オペラハウスでローエングリンをやってる。芸術劇場だと…ああそうだ、ベジャールのボレロとフォー・ライフが来てるな。ちょっと遠いが首都アンキセスでホリガーの協奏曲があるし。国立博物館で今は地球の芸術展をやってるから、それを見に行ってもいい」

 ……帰ってきた時にはもう全部終わっているだろうから、という言葉は、言わずに飲み込んだ。

 思い出す必要は無い。
 今日は休日だから。

「どれにします?」
 俺の胸元に凭れるシニストラが訊く。
 昔は全然関心が無くて知らなかったそういう芸術の類も、シニストラと付き合うようになってからはいろいろ知って教えられて、今では俺もすっかり気に入ってるし、自分なりの好き嫌いの好みも出来てきた。
 選ぼうと思えば、選びたいものも、一応ありはするけれど。
「おまえの好きなものにしろよ」
 俺はあえてそう言った。
 ふい、とシニストラが視線を上げてくる。
「……俺が決めていいんですか?」
 …少し甘えたその目は、シニストラにしてはかなり珍しい。よっぽどリラックスして俺に気を許している時の証拠だ。
 俺は嬉しくなって、満面の笑みで答えてやった。
「もちろん。どれがいい?」
 実のところ、シニストラが喜びさえすれば、どれにするかなんて、俺はもうかなり如何でも良くなっていたのだけれど。

 不意に目の前に影が差して、暖かい感触が唇に触れた。
 何をされたのか一瞬判らなくて、ゆっくり離れていくシニストラの顔の、真っ直ぐに向けられる真摯な視線を、しばらく呆然と見返してしまった。
 ……シニストラの方から俺に口付けるなんてこと、もういつ振りだったか、忘れてしまったくらいに久しぶりだったから。

「……俺は、あなたと一緒にいたい」
 甘えたシニストラの口調と、俺を見上げる甘い視線に、俺の思考は一瞬で溶かされ尽くす。
「俺はあなたと、ずっと一緒にいたい。………駄目ですか?」

 ほんの少しだけの陰りを見せるシニストラの言葉が、その裏で何を意味しているのか、気付かないわけではないけれども。

 今日は、まだ休日だから。

「……馬鹿」
 駄目な訳がないだろう、と、その先の台詞は続けなくても判ってほしい、そう願うけれど。
 ソファにその躯を押し倒して開いたままの胸元に唇を寄せる俺に、黙って微笑って腕を回してくる、その笑顔に自分の願いが満たされていることを知る。



 結局外に出掛けられなくなったその日の、すっかり日も傾いた頃に、せめて食事だけでもと思って、駄目元でステラ・マリアへディナーコースの配達を頼んだら、気のいいチーフシェフが苦笑しながらも自ら持ってきてくれて、俺は大いに感謝した。
 ワゴンを部屋へ持って入って、ソファの上で気堕るく身を起こしかけていたシニストラに腕を添えて卓へ促したら、俺の腕の中に滑り込んできて、とんでもなく甘い声で、食べさせてください、なんてねだりやがった。ああ、撃沈。
 余りに口惜しかったから、その口にスプーンとキスとを交互にくれてやった。
 シニストラは喜んだから、御仕置きにならなかった。


 もう夜もずいぶんと更けて、明かりを消した部屋の中は静かな暗闇だ。窓から見える人の営みの地上の星が、小さく美しく瞬いている。
 ベッドの上で仰向けになって、目元をほんのりと上気させて、乱れたシーツの上でとろりと快楽の余韻に全身をゆだねるシニストラを、俺は少しだけ離れた横から頬杖ついて眺めた。
 繰り返して何度も抱くというのは、一回抱いただけでは満足しないから、というのももちろんだけれども、それ以上の意味があって。
 俺は手を伸ばして、軽く開かれたままの唇の上に、中指をそっとそっと滑らせた。ただそれだけの行為に、繰り返し愛撫を受けて敏感になった躯はぴくりと小さく撥ねる。
 ん、とも、あ、とも聴こえる、鼻にかかった甘い声が、俺の指の触れる色づいた唇から漏れた。
 ぐったりとしている躯を抱え上げて、自分の身体の上に乗せた。力の抜けたように俺の胸の上に凭れて、熱い吐息をひとつ吐くシニストラが可愛い。
 抱き始めの最初の時はまだ固くてぎこちない身体が、俺の手で何度も抱かれているうちにどんどんと溶かされて、熱くしなやかに俺の身体に馴染んでいって、愛撫する俺の手にどんどんと敏感になってゆく、その過程がいつも堪らなく好きだ。だから俺はいつもこいつを繰り返し抱く。
 だけどまだ、許してやりはしない。
 背に回していた手を、意図を持って背筋に沿って滑らせてやれば、感じ過ぎているほどに敏感になった肌は大きく背を反らせて、艶やかな声が堪りかねたように零れる。
 宙に浮いた首筋を甘噛みしたら、いつのまにか俺の片腕を掴んでいた細い指に、強く力が篭められて爪が食い込んだ。
 その辺りで俺のほうが我慢できなくなって、上下を返してシニストラをベッドに押し付けて組み敷いた。


 最後の気力ひとつさえ使い果たしたような様子でぐったりとしたままのシニストラを、俺は両腕で抱え上げてバスルームへ向かう。
 なみなみと湯の張られたバスタブに、シニストラを抱えたまま入った。
 一通り身を清めてやったところで、シニストラが閉じたままだった目を薄く開いて、
 ――その時初めて、物言いたげな表情で俺を見た。

 判ってる。
 滅多に弱みを見せないシニストラが、何故今日に限って、これほどまでに俺に甘えたのか。
 全部、判ってる。

 けれど、今日はまだ、休日だから。

「寝ていいぞ」
 疲れ果てて直ぐにも眠りに落ちそうな様子のシニストラに、そう声を掛けてやる。
 シニストラは小さく、緩くかぶりを振った。
「…デクステラ。――俺は………」
「明日話そう。シニストラ。」
「………………」
「俺は明日も、おまえの横にいるから。――明日も明後日も、その先もずっと、おまえの傍にいるから。」
「…………」
「だから今日は、もう寝ろ。……俺の腕の中で。」
「……………」

 ぱしん、と、あの小さな閃光と音がした。
 シニストラの気配がぼんやりとその強さを増す。
 意識の中で、未来を辿ったシニストラは、――やがて安心したように、静かに目を閉じた。俺の身体に掛かる暖かい重みが少しだけ増す。
 すぐに穏やかな寝息が続いた。

 片手に抱えたまま、軽く髪を洗ってやって、入ってきたときと同じように抱え上げたままバスルームを出た。
 とりあえずバスローブを着せてソファに横にして、艶やかな空色の髪を丁寧に拭いてやる。



 未来は、常に可能性なのだと。
 未来を見通す特殊能力、ウェネヴァを持つシニストラは、いつもそう言う。
 可能性の高い未来は、より濃く、はっきりと。可能性の低い未来は、薄く、ぼんやりと。考えうる限りの未来の複数の映像が、いくつもいくつも重なって見えるような感じなのだと。
 そうシニストラは、自分の能力について説明してくれたことがある。

(けれど、その未来の可能性を動かすのは、自分たち――俺たち一人一人なんですよ)
 シニストラはそう言う。
(見えるだけでは、未来は動かない。――自分の望む未来が実現してほしいと。そう考えて、そうなるように行動し、努力すれば、望む未来はより濃く、はっきりと。もし行動の方向性が間違っていれば、未来は薄く、ぼんやりと。ウェネヴァの能力ではそう見えてくるようになります。――俺はそれを確認することが出来るだけですよ)
 だから、どんな些細な可能性であっても。
(未来は常に、可能性なんです。……自分から努力すれば、どんなに小さな可能性であっても、それが実現する未来を手にすることが出来るかもしれない。
 ……その可能性は、いつでも残されているんです。俺たちの――誰の手元にも。)

 でもね、と、シニストラはそこで声を小さくして、嬉しそうに話してくれた。
 この間まで、あいつがずっと俺に黙っていた隠し事を。

(あなたとの未来は、……あなたが俺の横で笑っている未来は、手に取るように――疑いようの無いくらいに鮮明に見えたんですよ。くっきりと。)


 そのシニストラの笑顔が曇ったのは、エクリプス局長がメルクルディ秘書官に発言記録まで取らせた、あの会合から後だった。


(……未来が……)
 俺との未来が。
(初めて、今までよりも薄く見えるようになりました………)



 今日のこの日の、この休日が終われば。
 明日になれば。

 俺たちの未来を脅かすほどの、その場へと俺たちは赴く。

 ヴァージン・ヴァイラスとの総力戦へ。



(未来は、常に可能性なんだろう?)
 俺は答えた。
(だったら、俺は努力する。おまえが横にいる未来が来るように。)
 そう言ったら、シニストラは軽く目を見開いて、少しの間を置いて、
(……そうですね)
 とても嬉しそうに笑った。

(やっぱり、あなたは――俺のパートナーなんですね)


 未来は常に可能性で。
 可能性を動かすことは、そんなに難しいことではない。例えば、言葉ひとつだけでも。
 俺がシニストラに掛けたさっきの言葉も、俺たちが望む未来の可能性を強くして、それを能力ウェネヴァで見たシニストラは安心して眠りについたのだと。
 そう思いたかったし、たぶんそれで事実なのだった。



 俺は空色の髪を拭き終えた。
 シニストラは穏やかに眠っている。
 ソファのシニストラの元から少し離れて、ベッドのシーツを取り替えて、戻ってきて、シニストラのバスローブを脱がせて、素肌のシニストラを両腕に抱え上げた。シニストラが夢現のままで腕を絡めてくる。
 寝室に入ってベッドに躯を下ろしたら、新しいシーツが少し冷えていたらしく、シニストラは小さく身震いをした。
 毛布を掛けてやって、俺もバスローブを脱いでベッドに滑り込んだら、俺の胸元に擦り寄るようにしてシニストラが身を寄せてきた。
 直接触れ合う肌は、胸の奥が締め付けられるように切ないほど暖かくて。

 今日はまだ、休日だから。

 そうして俺も、まもなく穏やかな眠りについた。