■ Intermission, with No Intermission
自分の手が空気を切る、その感触で目が覚めた。
見慣れない景色だった。
とりあえず、明る過ぎる。
自分の部屋のカーテンはかなり厚い遮光のものだから、これほどまでに朝の光が差し込むことは決してない。
だからといって昨夜、同僚と飲んで自宅以外の場所で夜を明かすような羽目になった覚えも、戯れに一時の夜を交わす女と過ごした覚えもなかった。
もっともそのどちらもが、多くの戦友を亡くして、そしてただひとりのあいつを手に入れたあの時以来、縁遠くなって久しかったが。
見慣れないものは他にもある。
呆っと開いたままの俺の視線の前で、シーツの上数十センチの何もない辺りをふわふわと頼りなげに漂っている、そのおかしな動きをするそれが自分の腕なのだと、気がつくまでに少し時間がかかった。
どうやら宙を切るこのこれが、俺の意識を覚醒させた原因らしい。
らしいが、やっぱり訳がわからなかった。
「此処は……」
何処なのかと、思わず口に出して疑問を抱いた程に。
「起こしちゃいましたか。すみません」
涼やかな、…無条件の愛おしさで胸が締め付けられるような、その声音。
声より先に響いたはずのソーサーとスプーンの触れ合う音は、少し遅れて理性に了解される。
弾かれるように視線を向けた先、俺の視界に飛び込むのは、俺のカップを手に、ゆっくり近づく淡い青の色彩だ。
「……朝食の用意をしていたので」
わずかに首を傾げた、その流麗な顔の目元には長めの前髪が落ち掛かり、その髪と同じ色合いの色素の薄い空色の瞳は、真っ直ぐに俺を見つめて優しく微笑っていた。
「……シニストラ」
そうか。
おまえの家か。
自分が目覚めた原因の理由も、見慣れない景色の理由も、そこで全てが判ってしまった。
「そうですよ、デクステラ。……もう朝です」
語尾は少し悪戯めいた、綺麗な微笑みの中に融けてゆく。
唯一無二のこの俺のパートナーは、俺のことなら何もかも理解しているような節があった。ことによると、俺以上に。
たぶん今も、判っているのだ。
俺の口から、音のない苦笑が漏れる。
今朝、目覚めた時の俺の視界。
こいつの首筋に顔を埋めた時の、青い海の中に漂うような心地よい仄暗さと、夢現にその躯を探しては背中から抱き締める俺の腕とをその光景の中に加えれば、いつもと同じ恒例の目覚めの風景になるのだということを。
「はい」
「すまんな、コーヒーか」
澄ました顔でソーサーを差し出すその態度が小憎らしくて、俺は負けずに澄ました顔でカップセットを受け取った後、延べられていたその腕を唐突に引き、躯の傾いだあいつから唇を掠め取った。
不意を突かれて驚いたように慌てて身を離すシニストラの、僅かに朱を刷いた表情に満足してカップに口をつける。
ほろ苦い味が喉を通過した後、出て来たのは満足感の溜息だった。
「相変わらず、おまえの淹れるコーヒーは美味いな」
嬉しい日常だ。
飲み慣れた、ブルーマウンテンベースのいつもの豆の味も。
お世辞はいいですよ、と平静を装いながら、まだ目元の朱を醒ましきれないおまえの隣も。
…あの夜に初めて聴いた、望郷の曲も。
俺のパートナーであるこいつは、俺のことなら何もかも理解しているような節がある。
それは俺たちが俺たち二人になる、それよりも以前からのことであったらしく。
こいつの家で、こいつの淹れたコーヒーを出された一番最初の朝には、もう俺の嗜好を把握していて、それが判っていて出したものらしかった。
だから当然のことなのかもしれないが。
……居心地がいい。
肌にまで違和感なく馴染むようなほどに居心地のいい場所を、毎回俺のために無理なく用意できるおまえにいつも感心するのだけれど。
さすがにそこまで俺が満足し切ってしまうと、不意に悪戯を仕掛けられて狼狽える羽目になったシニストラはいささか面白くないらしく、でもデクステラ、あなたの寝顔を久しぶりに見せてもらいましたよ、なんて事を言ってくる。
顔に似合わず負けず嫌いなところのあるこいつに、俺は再び、今度は声を出して苦笑するしかなかった。
「さすがに夕べは、くたくたになるまでやったからな」
そのくたくただとかやっただとかを、シニストラがどちらの意味で取ったかは判らないが。
「そうですね。――昨日の晩は……」
溜息に溶けるような、曖昧に霧散してゆく語尾の、そのリズムのおまえも、俺は決して嫌いではない。
俺のパートナーはただ一人。
俺の全てを受け止めきれる、そのただひとり。
……俺の永遠の半身の、ただひとり。
「受けてみせる!」
無数に仕掛けた俺の攻撃を、そう叫んで受け止めるその煙幕の中から、やがて無傷のおまえが凛然と姿を顕した時――俺は嬉しさで身震いしたほどだった。
精神が高揚して、こめかみの辺りが強い熱を帯びる。背筋がぞくぞくするほど気持ちがいい。無意識の舌舐めずりを、浮かんでくる笑みを抑えきれなかった。
俺の相手を務められる人間など。おまえしか知らない。
平常時は柔らかさを伴った優しさを湛える空色の瞳が、戦いの今は冷徹なほどに強く強く俺を見据える。
それがただ俺一人に向けられる、その事実が意識に響きすぎて、気が遠くなりそうなほどに最高だった。
俺と向かい合っても。
俺と並んで、共に敵へと向かい合っても。
常に俺の傍らにあって毅くしなやかに在る、その存在はあまりにも強烈に俺の精神を揺さぶり、疲労の蓄積してゆく身体と反比例するように、一秒毎、俺の感情のボルテージは際限なく高められてゆく。
この存在の。
何もかもを手に入れたい。俺だけが奪い尽くしたい。
果てしなく広がる時間と空間の中、ただ一人だけの俺のパートナーの。
本人も知らないような深いところまでの全てを暴き、全部を曝け出させたい。俺の前に。
何もかも判らなくなるほど、滅茶苦茶にしてやりたい。
……俺だけが。
そうしてたいていそういう日の夜は、そのままの暴力的な激情で容赦なくシニストラを抱こうとするから。
あいつの躯に触れる俺の手を、やんわりと押しとどめようとする、その抵抗に、
……俺を拒否するのか?
俺の存在を否定するのか?
この俺を? おまえのただ一人の相手を?
そうして俺の理性が切れる。
ことさら酷く手足を攀じ上げる。
逃げようとする躯を固定する。
苦痛に歪む顔に欲情が煽られる。
零す涙に征服欲が刺激される。
……まだだ。
まだ足りない。
渇望は尽きることを知らない。
抱いても抱いても、まだ欲しくて欲しくて仕方がない。
俺のただ一人の相手の、何もかもを。
長時間の行為に、朦朧とした表情で。焦点の合わなくなった視線で。
掠れた声で、細い懇願が聞こえる。
……お願いですから手を離してください。
…許さない。
絶対に許さない。
俺から。この俺から離れるなど。
死んでも許すものか。
絶対、離さない。
そうしてもう既に息も絶え絶えなシニストラを、抱き殺さんばかりに追い上げ尽くした。
「ゆで卵、どうぞ。黄身は半熟です。」
白いコースターに乗せて差し出されたボーンチャイナのエッグカップには、シンプルな緑の葉がひとつ描かれているのみで、食器の持ち主の在りようを良く表している。
「ああ、ありがとう」
手際よく朝食の用意を進めるシニストラは、それでもさすがに気堕るそうな吐息をひとつついた。
夕べは……ほんと死ぬかと思いましたよ、と、予想していたよりはさっぱりとした口調で言い、死にはしないさ、おまえも俺も、と俺は単なる事実をそれに対して何の気なしに答えた。
……けれども形として発せられたその言葉は、ひとりでにあの時を思い出させる。
シニストラにも、俺にも。
死者を悼む教会の鐘は、嘘めいた作り物のように平坦に青く広がる空の下でその音を高く響かせていた。
だだっ広い緩やかな丘は、微風をすらも、その上を通り過ぎるうちに冷淡で無常な風へと変える。
墓参りはもう済ませた。
けれども俺は、墓石の列の間をただ歩いていた。
数歩遅れる足音が俺の後を付いてきていた。
「この宇宙に神とやらが居るとしたら、そいつはよほど寂しがり屋と見える。……くそったれが」
ささくれ立った俺が独り言のように罵倒を吐けば、優しい声でいけませんよ、と窘める。
キャプテンと呼ばれて八つ当たりをする俺に、少し驚いて口篭もって、けれどもすぐに表情を和らげる。
振り返ったその少し先、淡い色彩の、長めの髪を風に任せて弄らせる、その凛素とした立ち姿を、俺はただじっと見詰めた。
……生き残ったのが、何故、俺と――こいつなのか。
何故、俺と対になる呼称を与えられたこいつなのか。
最初の頃は頼りなさげな奴だと思っていた。
自分と相合するその名前を聞いた時は、純粋に驚いて、そして内心では不本意に思った。
頭は切れそうだったが――お誂えの副官向きだ――俺の渡り歩くような、過酷な戦場の環境に耐えられるような奴ではないと。
それが何故、こいつだけが、俺たちの――俺のチームの中で、唯一生き残っているのか。
偶然でないことは判っていた。
あの激戦を偶然だけに頼って生き残ることなど有り得ない。
それは間違いなく、こいつ自身の実力だった。
こうやって静かに微笑う、その姿からは想像も出来ない、戦場での在り様を思い出す。
ブリッジの椅子を蹴るようにして立ち上がり、強い眼差しで矢継ぎ早に的確な指示を出す。
飛び出す俺の後を一歩と空けずに付いてこれる。俺の背中を守るのはいつもこいつだった。
こいつの命を救ったことも何度かあるが、こいつに命を救われたことも一度や二度ではない。
11人いた。
今ではもう、ただ2人だけだ。
俺と、
――目の前にいる、こいつだけだった。
キャプテン。
その呼称を、どれだけ口惜しく思ったことか。無力に感じたことか。
自分の実力の無さを、傷付き、倒れ、死んでゆく仲間の姿に、ただただ思い知らされただけだった。
咆哮いて悔いた。自分の無力を。
目の前の長髪の男が軽く目を見開いたことで、自分の表情が変わったことを知る。
長くもない俺の上着の裾が、吹いてきた強い風にはためいた。
「――シニストラ」
――力が欲しかった。
――もう誰も、俺の目の前で――死なせたくはなかったのだ。
逡巡は残っていた。
一人では絶対に無理なことなのだと判っていた。
けれどもそれを理由に、この男までもを俺の運命に引きずり込むことが――良いのか、悪いのか。
自分の命など、……力のないままの自分の命など、どうなろうと知った事ではなかった。けれどもこいつを、……死者の列に、新たな1人――こいつを付け加えることになりはしないのかと。
もう誰も死なせたくないと。それを望んだ俺が、たった一人生き残った同僚のこいつを、自分の望みのために死に追いやる事になりはしないのかと。
逡巡は解決を見ない。
意思は決定を下さない。
そんな中で俺はただ口を開いた。無意識が選ぶ言葉に未来を任せた。
「――おまえの命を、俺にくれ」
――言葉はそう文を紡いだ。
俺は我侭な人間だと思う。
おまえの命を――心も、身体も、尊厳もだ。
――俺に預けてくれないか。
そう言った俺に、
俺の命なんて、とっくの昔にキャプテンに預けてありますよ。
あなたが死ねと仰るなら、俺はいつだって死んでみせます。
微笑ってそう答えたおまえ。
背筋が総毛立ったほど、精神が歓喜した返答なのに。
そのあまりにも迷いのない、澄んだ目が、
――怖くなった。
ヘヴンズドア。
天に至る門。
人知を超越した力か、死か。
いずれかをもたらすと言う、その門の先へ。
おまえがその、人間の泥臭さを一切感じさせない澄んだ目で、真っ直ぐに飛んで行ってしまいそうで――怖くなった。
――地上に繋ぎ止めておきたかった。
夕闇が暮れてから食事を摂りに行った。煉瓦造りのほの暗い照明の、けれどそれが心地良い俺の気に入りの店で適当なメニューを頼んだ。
同僚で副官とはいえ、それまで勤務時間以外の付き合いはあまりなかったから、シニストラは初めて入ったその店の雰囲気を物珍しそうに眺めていたようだった。
「おまえの家に寄ってもいいか」
少し冷えた夜の空気の中、店を出たところでそう言ったら、シニストラは少し驚いたような顔をして、けれどすぐに微笑っていいですよと答えた。
奴の家の建物に着いて、俺を先導して前を歩く淡い色の後姿を、奇妙に感情の伴わない目で眺めた。
シニストラの家の中は明るい色でこざっぱりとまとめられていた。同じような白い壁でも家具の類に黒や灰色が多い俺の家と違って、ナチュラルカラーの木目の家具と煩くない程度の温かみのある色彩の小物が適当に配置されている。
「何か飲むものを用意しましょうか。普段はどんなのがお好きです?」
「いや、先にシャワーを借りたい」
向けられる視線を合わせないまま俺が答えたら、あいつは一瞬言葉と動きを止めて、
「……では上がる頃に用意しておきますね。ブランデーで良いですか」
と自然な口調で答えた。
「バスローブ、あるか?」
「俺のものでよければ。後から持っていきますね」
返る言葉には澱みがない。
勘の良い奴だから、もう気づいているのかもしれなかった。
……俺がこれからしようとしていることに。
俺がシャワールームから出たらシニストラがすぐ入れ替わりに入った。彼が歩くと、その頬のわきの髪がふわりと風に浮くことに、擦れ違ったその時初めて気がついた。
ソファの前のテーブルにはアイスペールに入ったロックアイスと貝の形のXOのボトル、それと白い皿にチーズやハムの乗った数種類のクラッカーが用意されていた。
程なくしてシニストラがシャワーから出てきた。
しっとりと濡れて雫を零す空色の髪は、初めて見る。
「何か……いつもはどんな曲を聴いていますか?」
目を遣れば、オーディオコンポに入っていたディスクを取り出しながら、曲目の棚を探すシニストラがいた。
「それが聴きたい」
俺は直ぐ答えた。俺のほうへ顔を向けるシニストラに、その手の中のディスクを指してみせる。
「……おまえが普段、聴いているものが聴きたい」
シニストラは少しの間表情を消した。そして持っていたディスクを再びコンポの中に入れると、いくつか操作をした。
ディスクが動き始める。トラック番号は2を示していた。
スピーカーから、弦楽の重奏がゆるやかに流れ出る。やがてさざなみのような山を越えると、丸みを帯びた管楽の独奏が静かに旋律を奏で始めた。
俺は全然そういう方面に造詣がなかったが、シニストラがAD時代のクラシック音楽を普段から好んで聴いているとは何となしに聞き知っていた。ディスクの並んでいる棚にそれらしきジャケットが見える。
シニストラが俺の正面のソファへと戻ってきて、自分用の水割りを作るのを視界の隅に映しながら、その旋律に聴き入った。
一言で言えば、郷愁だろう。
幼少期の印象に、何故か誰もが記憶に残す、どこまでも続く草原の、その夕焼けのような。
けれどそれだけではない何かが……初めて知る何か、その何かに向かっていくような。
懐かしくて、新しい……
「……融合を謳ったものなんだそうです」
穏やかな声のするほうへ、俺は振り返った。
「この曲の作者は――新しく移住した地でこの曲を書いて。誰もが気づくこの郷愁の音色に、人が問うたんです。これは遠くなってしまった故郷を懐かしむ曲なのかと。」
正面のソファで軽く顔を伏せ、語るシニストラは、薄い色のグラスの中身をゆっくり傾けている。
「作曲者は答えたそうです。新しい新天地の音楽を用いて、古い故郷の旋律を謳ったと。……ふたつの異なる文化の、融合を謳ったものだと。」
話し終えたシニストラを、俺はただじっと見詰めた。
……そうして再び、旋律に聴き入った。
弦楽が囁きを止めるようにフェードアウトしてゆく。
ホルンがそれを追うように小さく響いて、消えてゆく。
静寂が俺たちの上に降りた。
俺は静かに立ち上がった。
ゆっくりとシニストラに近づく。
視線を上げるあいつに、俺は手を差し伸べた。
感情を伺わせず見上げてくる色素の薄い目は、やがて静かに伏せられて、…立ち上がったその視線の先は、俺の掌にあって。
……暖かな細い指の手が、俺の手の上に重ねられた。
軽く握った。
シニストラが視線を上げて、俺を見る。……緊張した面持ちで。
何かを言おうとするように軽く開かれた唇に、俺はゆっくり顔を寄せた。
触れる直前。
掠める吐息の震えに。拒否する訳でもなさそうなのに、口付けを受けるにしては、微妙な顔の角度とか、身体の姿勢。
……そういうものに違和感を覚えて、俺は直前で躊躇した。
一度離れる。
硬く緊張して僅かに見上げる視線は、物問いたげに俺を見つめていた。
「……ひょっとして、初めてなのか……キスも?」
直感で抱いた疑問を口にしたら、シニストラは口をつぐんで、
……僅かに目を伏せて、
「笑いますか?」
かすかに微笑いながら、独り言のように小さく呟いた。
何も言えなかった俺を、シニストラは驚くほど綺麗な空色の目でいちど真っ直ぐ見上げて、それから目を閉じた。
「意図してそうしてきた訳じゃありません。……機会がなかっただけで。」
俺はそれでも言葉が出ない。目を閉じたままシニストラが続ける。
「……今までいろんな女性から、…まあたまに男性からも、そういう意味での付き合いを求められたことは何度かありましたが……そんな気になれなかったんです。一度も。」
そう話すシニストラは、むしろ淡々といっていいほどに静かな口調で。
「……何故、俺は?」
拒否しなかったのか。受け入れたのか。上官だから? 何か理由が?
訊く俺の表情は、たぶん呆然としていたのだと思う。
シニストラは瞼を開いて、俺を見上げて。
ふわり、と。
喩え様もないくらい、綺麗に笑った。
「――あなたが俺を求めた時、俺を必要としてくれているのだと知った時――俺はとても嬉しかった。とても。………それでは駄目ですか?」
目も眩むほどの、幻暈がした。
この稀有な存在に自分が傾倒していっているのだと、はっきり思い知らされた最初の瞬間だった。
怖がらせないように優しく抱き寄せようとする、自分の手のほうが震えていることに気が付く。
反射的に身を強張らせながら、それでも俺に寄り添おうとぎこちなく身を寄せる躯が愛しい。
一度髪を梳いて、初めて触れた艶やかなその感触に、俺のほうが緊張する。
顎に手を掛けて、僅かに上向かせて、羽毛のようにそっと唇を重ねあわせた。微かに触れ合う、それでもその瞬間に腕の中の身は撥ねて強張る。
無様なほどに、自分の吐息のほうが熱かった。
止まらない。止められない。
ぎりぎりまで理性のブレーキをかけ続けた。怖がらせないように。怯えさせないように。初めての経験に辛い思いをさせないように。
これは儀式なのだから、おまえの命を俺に繋ぐ契約の。星を地上に留めるための。そう何度も何度も自分に言い聞かせる。
それでも滑らかな肌を愛撫する行為は止まることを知らない。溺れていく自分を抑えられない。
強く抱き締める腕の中の存在の狼狽が、一秒ごとに増していくのを感じる。それでも情愛からの行為を緩めてやることは出来なかった。
「………っデクステラ! 待っ……待ってくださ、…っぁ…………!」
とうとう耐え切れずに制止の声が上がる。
「………何をしてもいいから。」
耳の後ろに直接唇を当て、肌の表面に低い声で囁いた。首筋が撥ねて反る。
「何をしてもいいから。苦しかったら俺の背中に爪を立てても、髪を掴んでもいいから。……………だから今は、俺を止めないでくれ。」
お願いだから。
今だけは、この想いのままに、おまえを。
「……愛してる。シニストラ。」
愛したい。
……愛してる。
俺の言葉に大きく目を見開いたシニストラは、やがてゆっくり震える瞼を閉じて、強く強く瞑って……そうしてそれから後、制止の言葉だけは絶対に言わなかった。
漏れ出る声を必死で抑えようとする態度に愛しさが込み上げる。
「……辛かったら、俺の名前を呼べ」
荒い息でそう吹き込んでやる。
「………っデクステラ、デクステラ……っあっ!……っ……!」
前後もわからず乱れさせられる、その綺麗な顔にはもう幾筋もの涙の跡が残る。
震える手を強く自分の身体へ回させた。背中に食い込む指の感触が嬉しい。
おまえの存在を、俺の躯へ刻み込んで欲しかった。
「………っ…デクステラ、………っ……!」
そうして俺の存在を、おまえの中へ――刻み込もうと。
まだ4人だった時、シニストラが言った言葉を思い出す。
(たとえ命を失ったとしても、生き残った誰かがその意思を引き継ぐ限り、俺たちは決して死なないと)
……そんなものは嘘だ、と、今なら思う。
死んだらそれまでだ。
全てが無に帰す。
その髪も。この躯も。空色の瞳も。真っ直ぐに俺を見詰める意思も。
墓石の上を通るあの冷淡な風が、痛いほどに証明していた。
(たとえ命を失ったとしても)
…そんな台詞など、二度と言わせたくなかった。
たった一人となった、俺の相手に。
俺の半身に。
………生きる執着を与えたかった。
まるで俗世の何物にも捕らわれず生きているような、迷いなく澄んだ目のおまえに。
それが何であれ、どんな形であれ。
死を躊躇うような、この世への、その生への執着が生まれるのなら、何でも良かった。何でもするつもりだった。
唯一無二のこの俺のパートナーは、俺のことなら何もかも理解しているような節があった。ことによると、俺以上に。
けれどもこの俺のパートナーは、そうやって知った俺のことを俺自身には殆ど言わないから。
だからこの夜に、生きる執着を与えられたのは俺のほうであったのだと、そう気付いたのはずいぶん後になってからのことだった。
「これ、ブレンドは何だ?」
「ブルーマウンテンですよ。確か少しは他の豆も入ってたと思いますが」
「そうだろうな。俺の好みの味だ。」
酸味のきついだけのコーヒーは好きになれなかった俺は、この頃からよくブルマンを好んで飲んでいた。シニストラが俺の言葉ににこりと笑う。
昨夜の濃密な時間を感じさせない、清浄な朝だった。
大き目の窓から差し込む、溢れるほどの朝の光の中で、朝食の用意に立ち動くシニストラの後姿を眺める。
シャツの下はかなり酷いことになっていたようだった。
目を覚ました俺の腕の中から抜け出て早々にシニストラは服を着込んだから、あまり良く確認は出来なかったが。
昨夜の、そして目覚めた時の、言葉では表しきれないほどに切ない暖かさを思い出して、俺は横を通り過ぎようとしていたシニストラの腕を掴んだ。
不思議そうな目を向けてくるシニストラに立ち上がって向かい合って、直ぐに抱き締めたら、まだそういう事に慣れていない躯は慌てたように瞬間的に強張って、けれども俺が緩やかに髪を梳いたら、細い躯の緊張は昨日教えた分の量だけゆっくりと解けていった。
それでもどうしたらいいかわからないといった風に戸惑っているらしいシニストラの気配に、
「愛してる。シニストラ。」
そう告げて、迷う隙も与えさせないくらい強く抱き締めてやる。
「……だから死ぬな。何があっても。」
もう、おまえ無しではいられないのだと。
今日、これから向かう場所。
第七門の奥、おそらくは想像の限度を超えるほどの苦難の、その向こう。
天に至る門の向こうまで。
おまえと共に辿り着きたいのだと。
強く重ね合わせた身体越しに伝えた俺の言葉を、シニストラは飲み込むようにしばらく沈黙してから、
「……はい」
と芯の通った澄んだ声で答えた。
「……おまえからは聞かせて貰えないのか?」
いくらなんでも過分な願いだと、我ながらそう思いつつ訊く。昨夜の想いはほとんど俺から一方的に押し付けたようなものだ。
シニストラは俺の胸元で抱き締められたまま、少しだけ、囁くように笑った。
「……帰ってきたら。」
ふう、とシニストラの視線が上がる。
驚いて見返す俺に真っ直ぐに向けられる色素の薄い両目は、穏やかに微笑っていた。
「…帰ってきたら、あなたに告げます。……だから死なないで下さい。何があっても。」
絶句した俺は、多分昨日のようにしばらく呆然として。
それから、その身を思い切り掻き抱いて、深く深く口付けた。
そうして思い出す。
昨夜もこうやって、触れれば触れるほどに溺れていって、酷い痕が残るほどに、手加減が効かせられなかったのだと。
シニストラが作ってくれた朝食を摂りながら昨夜の曲をもう一度リクエストしたら、変調部を過ぎた辺り、管楽のトリルが鳴り出す辺りで、ほら、ここの場面は朝の情景、鳥の鳴き声と夜明けなんですよと教えてくれた。
他のトラックも聴きたいと言ったら、シニストラは少し戸惑い、それでも俺が重ねて強いたら、あいつは困ったように笑って、第1楽章から順に聴かせてくれた。
そこで俺は初めて、昨日聞いた望郷の曲、それ以外の楽章を――戦場へ赴く前に聞くには良くても、戦いから帰って仲間を弔って、…疲れ果てた精神を抱えて帰ってきた夜に聴くにはいささか好戦的すぎるそれらの楽章を、シニストラは昨夜の俺にわざと聴かせなかったのだと――気が付いて。
あまりにもの嬉しさに悔しくて、俺はもう一度シニストラに唇を重ねた。
そうして、第七門研究所の入り口をくぐった俺たちは――
「帰ったら、少しは手加減してあげなさいよ。可哀相に。」
わざわざ見送りに来てくれたプロフェート管理官にそう告げられたその頃の俺たちは、まだシニストラが俺との関係を言及される事に慣れていなくて、――俺たちにしたってその事を思い出したの自体も久しぶりだったし――、シニストラは動揺を抑えようとしつつもやはり狼狽を隠し切れないようだった。
入所当日、俺たちが別々の部屋に分配されて、詳細な医療検査を受けさせられた時、ああ、まずかったかなと別室の半身を思い遣りつつ、その時点で俺たちの関係がとうに知れてしまったのは判っていたけれど。
さんざん俺たちを引っ張り回してきた日々の、最後の仕上げとばかりにわざわざそれを言ってくる彼女も彼女でなかなか大したものだった。
彼女なりに、それなりの月日を共に過ごした、……もうこの先、会う事もないかもしれない俺たちの永いこれからを思い遣ってくれているのだ。その表面的な態度を裏切って、彼女の内面がそれほど嫌味でも強気でもないことを、共に在った日々で俺たちもそれなりには判るようになっていた。
俺のほうはというと、シニストラより先にたいていの事には動じない神経が出来上がっていたから、反撃を試みるくらいの余裕はその時にもうあって、
「同じ台詞をフォルシュングート研究員にお返ししておきましょうか? お聞きしましたよ、おめでとうございます。双方積年の念願成就だそうじゃないですか」
そう返したら、彼女はしばしの間唖然として、それからあらやだ、どこから聞いたのそんな事、とシニストラ以上に目に見えて狼狽えた。
見送りに同行するはずのミシオネール所長が現れるよりも前、顔を真っ赤にしながら早々に研究所へと引っ込んだその彼女の姿に、俺もシニストラも、思っていた以上に若く初々しい彼女の年相応の姿を初めて見たのだった。
プロフェート管理官……いや、フォルシュングート管理官……そういえば、結婚後は非常勤研究員になったのだったかな。
あなたは、笑いますか?
俺は今でも、……あれから永い永い時が過ぎた今でも、シニストラに手加減できないんですよ。
愛しくて。
……愛し過ぎて。
シニストラの袖口から覗く、白い手首にくっきりと付いた痣を見ながら、意識を現実に戻した。
「朝食、美味かった。ご馳走様。」
「お粗末さまでした」
シニストラがにこりと微笑う。
朝食ひとつですらも、すべて俺の好むものが用意されて。
この唯一無二の、ただ一人の俺の半身であるパートナーは、俺のことなら何もかも理解しているような節がある。
それが時に嬉しく、時に悔しいけれども。
もし、おまえにすらも判らない俺のことがあるとすれば。
ただ。ただひとつ。
俺がおまえを愛する、その強さと深さだけは、おまえの理解を超えているのかもしれない、とそう思う。
どんな時でも、
きっと、おまえを放してやれないと思うほどに。
「シャワーを浴びたら、本局へ行こう。局長をお待たせしてはならない」
「はい。デクステラ」
微笑うシニストラに、俺も笑みを返して。
俺のパートナーはただ一人。
俺の全てを受け止めきれる、そのただひとり。
……俺の永遠の半身の、ただひとり。
――永遠に愛してる。
■ 「Intermission, with~」の解釈が英語の本義と大幅に違っていても気にしないでくれたまへ。