■ Wave Function

「こんばんは」
 ドアの向こうに現れた涼しげな微笑を見て、やっぱりめておくのだったと後悔した。
 止めておくべきだった。何であっても理由をつけて、インターホンの所で帰しておくのだった。
「食事、まだですよね。軽くですけど持ってきました」
 パートナーの左腕に掛けられている蔓皮の手提げバッグが視界の端に映る。ドアを通り抜けてくるその動きがスローモーションのように感じられる。普段と何ら変わることのない、ゆっくりと近づいてくる笑顔に視線は釘付けになったまま、俺はただその場で立ち竦むしかなかった。

 耳が聴こえないものを聴き始め、眼が視えないものを視始める。
 全身の細胞がざわめくように、血が逆流するように。
 ある意味でそれは、能力エニウェアを使うあの瞬間の感覚に似ていた。

 傍から見ればただ単に突っ立っていたように見えたかもしれない。だがその異様さは、昼間からの――あるいはここ最近の――俺の異変に気付かない振りをしようと決めてから来たらしいシニストラを、それでも戸惑わせる程のものであったようだった。
 歩みを止めるのといぶかしげな顔を見せたのが同時。ややあってから、寄せられた眉は緩やかに解けて憂慮の表情へと変わった。
「デクステラ………?」
 そうして一歩歩み寄る。その一歩が、臨界へ近づく一歩と知っているのか、知らないのか。
 俺の視線は端麗なその顔に固定されたままで。
 この世界の次元を超えたものを視る、ヒトとして在らざる能力が、その向こうに映る運命の波動関数を捉えていた。
 霧のように全宇宙内で広がり漂うそれが、有り得るべき未来へと向かって収束を始める。
 ざわりと総毛立つ感触で現実を見直したら、シニストラの手が覚束なげに俺の腕に添えられていた。
 その暖かさ―――

 自分の両眼の瞳孔が開く音さえも聴こえるような気がした。
 シニストラの手提げの中でかちゃりと食器の触れ合う小さな音が鳴った。

 運命の波動関数が、その速度を急加速させて最後の収縮へと向かう。
 選ぶ道は2つ。
 拒否か、それとも―――――



 A.D.1905、光は粒子と波の性質の両方を有するという「光の二重性」がアインシュタインによって明らかにされると、その後引き続いてド・ブロイにより、電子もこの二重性を有することが示された。ここで電子の波としての性質を数学的に表したものが、後のシュレーディンガーの波動方程式である。
 この波動方程式において、電子の波の振幅を2乗したものはその場所および時点における電子の存在確率を表す。方程式上、1個の電子の波は宇宙のあらゆる点において固有の振幅を有することから、電子はある瞬間において宇宙のあらゆる場所に(その地点における固有の存在確率をもって)同時に存在していると解釈できる。
 ところが通常、我々が電子の運動を観測する際には、ある固定された一定点における単一個の粒子として電子を検出する。これを解釈するため、ボーアを始めとしたコペンハーゲン学派は、観測という行為によって波動関数の「収縮」が起こり、それまで全宇宙に広がっていた電子の存在確率が一点に集約し、実体を持つ一粒子として確定されるのだと提唱した。これが所謂いわゆるコペンハーゲン解釈である。
 観測という恣意的な行為が物質の実在を決定するというこの解釈は、科学・哲学・神学の世界に嵐のような論争を巻き起こした。中でも科学界においてこの考えに強硬に反対したのがアインシュタインとシュレーディンガーであり、彼らは様々な思考実験を持ち出してコペンハーゲン解釈の矛盾を示そうとした。その最も有名な例が「シュレーディンガーの猫」である。



 ソファの硬いクッションに手を突き、シニストラはゆっくりと上半身を起こすと、俯いた姿勢のまま乱れた蒼銀の長髪を緩慢に掻き上げ、それから軽く頭を振った。
(………どうして、あんなものを視たのだろう)
 時間を読む自分の能力ウェネヴァは、突き詰めれば過去、未来の他者を追体験することでもある。
 だからといって特務にも関係しないのに、矢鱈滅多と他人の思考を読むなどご法度だ。ましてやそれが信頼関係で結ばれたパートナーならなおのこと。何よりもその手のことはシニストラ自身が一番嫌う類のものなのに。
 今までそう思ってきたけれど。
(それでも視たということは……。…言い訳出来ないかな)
 信頼関係で結ばれたパートナー。
 逆に言えば、パートナーとの間を繋ぐ絆は信頼関係しか無いということだ。
 潜在意識か、と自嘲気味に笑った。
 そうしてようやく、まだ少し揺らめく視線の先の、自分の傍らに佇む誰かの足に気付いた。もう一度緩く頭を振ってから顔を上げる。
「お気づきになりましたか。…ご気分はいかがですか?」
 辺りを見回せば、そこは駆逐艦級の戦艦ブリッジだった。GOTTの所属戦艦ではなく、こちらをちらちらと気に掛ける乗組員クルーの制服も違う。が、その制服には見覚えがあった。
「医務官に診察させたのですが、これといった外傷もないということでしたので。こんな所で申し訳なかったのですが」
 このクラスの戦艦の責任者にしてはやや若手の、茶髪緑眼の男性が姿勢正しく立っている。
「ありがとうございます。お手数をお掛けしたようです。…貴官の所属をお教えいただけますか」
 本来なら自分から名乗るべきなのだろうが、GOTTのESメンバーとしてはそうもいかない情況であることの方が大半だ。もっとも相手方も、こちらがGOTTの関係者――それも上級職員――であると了承してのこの応対なのだろうが。
 男性は即座に敬礼の姿勢を取って言葉を続けた。
「申し遅れました、本官はフォルトゥナ共和国第7艦隊所属中佐、ヒュー・エヴェレットです。当艦の艦長を務めております。」
 今回の特務の要請元である国の所属艦隊で間違いなさそうだった。
「では状況報告をお願いします、エヴェレット艦長」
「敵旗艦及び護衛艦は全て拿捕しました。敵に反撃の意思はなく、武装解除は終了しております」
「損害は」
「我軍、友軍のGOTT艦隊、ともに軽微であるとの報告を受けております。重力波を比較的至近距離で受けた艦体は帰還後に材質検査が必要になるとは思いますが」
 ほっと一息つくのと、多少の混乱が続いていたシニストラの記憶から過去が蘇るのとはほぼ同時だった。

 ――重力波。

(そういえば……)
 我に返った。とても重要なことだった。

 どうして自分は戻ってきて・・・・・いるのだろう。

(止めろ、シニストラ! ……止めてくれ!)
 シュヴァルツシルト半径の中、事象の地平面を越えて飛び込む直前、最後に聴いたのはパートナーのそんな悲鳴に近い言葉だった。もっともシニストラは宇宙空間に生身で飛び出したのだから、空気の振動による通常の音声としては聴こえる訳がない。
 自分たちの能力、その最後の共鳴を介して。
 光ですらも引き返しようの無い不可視の境界線を越えるその瞬間、自分たちの間にまだ通じるものがあるのだと判って、ささやかに安堵した。そうして却って心は平静を得た。
 暗黒の虚無に飲み込まれながら。想像を絶する質量がただ一点に集中するその中へ、自分もその質量の一部となり果てながら。
 最後の瞬間に見たのは――

「―――ブラックホールはどうなりましたか」
「蒸発しました」
「蒸発………」
 では自分は失敗したのだろうか。
 ブラックホールの蒸発時には爆発的な熱エネルギーが発生する。シニストラが全宙域に向けて発した退避の警告も遅きに失し、そのままでは敵味方双方の艦隊に甚大な物的・人的被害が生じるのは間違いなかった。
 蒸発を防ぐ手立ては、それを食い止められるだけの質量とエネルギーをその前にブラックホールへ注入すること。間に合うのはデクステラより一瞬先に反応した自分しかいなかった。
 だから飛び込んだ。二度と生きては戻れないと知って。
「被害は軽微であると」
「その通りです。GOTTの指揮官の方から警告を頂いたお陰で、なんとか全艦の退避が間に合ったようです」
 有り得ない。自分が発したあのタイミングでは。それだけは断言出来た。
 そこでふと気が付いた。
「GOTTの指揮官」
「はい、……お名前は存じませんが、紅髪の」

 ………ようやく、この事態の原因と現状が飲み込めてきたようだった。
 まさか、という思いの方が強いが、総合するとそういう結論に至らざるを得ない。
 それで自分が最後の瞬間に見た、あの光景の意味にも合点が行った。

 最後の瞬間。
 光をも吸い込む所為で一切の景色が視えるはずの無い、そのブラックホールの中心で、多次元をその中に内包するカラビ=ヤウ多様体が開くのが視えた。
 自分たちの能力が次元を操る能力である以上、この世界において通常以上の次元を操作しようと思えば、必然的にカラビ=ヤウ多様体を操作することになる。珍しいことではない。そもそもワープの際にも、プランク超空間ハイパースペースを形成する時には無数のカラビ=ヤウ多様体が開く。
 だが自分が視た、あの開き方は明らかに異様だった。空間次元を開くのとも、時間次元を開くのとも違う。今までに経験したことの無い展開の仕方をした。
 その結果がこれということだ。

 ブリッジの壁、天井、床に映し出されている全方位スクリーンを改めて見た。
 水平2時方向にGOTTの艦隊が、そしてその先頭に、赤と青の流線型の機体が見える。
 赤く光る機体から感じる懐かしい気配。だが微かな違和感。そして青の機体から届く、最も馴染み深いが、他人として感じるのはこれが初めてであるもう一つの気配。

「確認したいのですが」
 自らに言い聞かせるように、シニストラは言葉を紡いだ。
「俺は蒸発するブラックホールから・・出て来たんですね?」
「……そうです。ですから、GOTTの…ESメンバーの方ではないかと思いまして」
 話には聞いていても、人知を超えたその能力を実際に目の当たりにすると俄かには信じ難いのだろう、エヴェレット中佐はやや言葉を詰まらせた。ましてやブラックホールの中から生身で飛び出し、大質量の重力波をまともに受けて、それで生きているなど、一歩間違えば喜劇的ですらある。
 問いとも確認ともつかない中佐の言葉には、あえて返事をしなかった。

「………向こうでも気が付いているかとは思いますが。GOTT艦隊に連絡をお願いします。ESメンバーのデクステラと、……それから、シニストラ・・・・・に」



 ある箱の中に一匹の猫が入っている。この箱の中にはそれに加えて、放射性物質、放射線の検出器、そして毒ガスを封入したビンを入れてある。放射性元素が放射線を放出して別の元素へと崩壊する過程は本質的に波動関数と同様の確率の問題であることが知られている。そこで次の1秒間にこの放射性元素が崩壊する可能性を50%としよう。放射性元素が崩壊して放射線を放出すると、検出器がそれを検知し、装置に連動した毒ガスのビンを割り、箱の中にいる猫を殺すような仕組みになっている。猫が生きるか死ぬかの確率はすなわち50%ずつである。
 さて運命の1秒が過ぎた。放射性元素が崩壊した確率は50%、崩壊しなかった確率は50%である。しかし未だに箱の蓋は開かれておらず、放射性元素が崩壊したか否かについての観測はなされていない。すなわちこの時くだんの放射性元素は、崩壊した50%と崩壊しなかった50%の重ね合わせの状態で存在している。したがって箱の中の猫も、生きている50%と死んでいる50%との重ね合わせの状態で存在していることになる。ここで箱の蓋を開ける。観測が行われることによって猫の波動関数は直ちに収縮し、生きているか死んでいるかのどちらかの状態へ確定する。これは明らかにナンセンスである、とコペンハーゲン解釈に反対した人々は説いた。半分生きて半分死んでいる状態の猫などありえない、と。
 実際には猫は周囲の空気の分子、箱の構成元素等との接触を絶つことは出来ず、これらの分子が猫に衝突すると波動関数の収縮が起こり、箱の蓋が開けられる前に猫の状態は生きているか死んでいるかどちらかの状態に確定する、と主張する説も現れた。生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせの状態(干渉状態)が周囲の分子によって乱されることにより、生きている猫の状態、死んでいる猫の状態の2つに分かれることから、この現象は「干渉性の消失」と呼ばれた。しかしこれによっても、はたして猫が生きている状態と死んでいる状態のどちらへ収縮するのかは不明なままである。波動関数が収縮する時、あるいは干渉性を消失する時、自然はその最終状態をどうやって「選択」するのか、という問いには答えることが出来ない。
 そこで新たに考え出されたのが「多世界解釈」である。
 この理論では波動関数の収縮を必要としない。その代わり、宇宙全体が生きている猫の宇宙と死んでいる猫の宇宙の2つに分裂する。猫が生き延びた宇宙の観測者にとっては、生きている猫のいる自分の世界こそが真実であり、猫が死んだ世界は「可能性としてはありえたが、実際にはそうならなかった」仮想の世界である。猫が死んだ宇宙の観測者も、その逆を同様に主張するだろう。実際には双方の世界が真実であり、実在の宇宙として同時に、かつ平行に存在しうる。それどころか、あらゆる量子的な選択過程において宇宙はその波動関数の確率に従い、無数に分岐し続けるのである。




「――つまり」
 貴賓室代わりに通された応接間で、デクステラが言葉を継いだ。
「こちらの宇宙では俺が警告を発し、敵味方艦隊の退避が間に合った。ブラックホールはそのまま蒸発した。向こうの宇宙ではおまえが警告を発したものの、艦隊の退避が間に合わなかった。それでおまえが蒸発を食い止めるためにブラックホールへ飛び込んだ」
「はい」
「向こうの拡大するブラックホールが平行宇宙ワームホールの入口として、こちらの蒸発するブラックホールがワームホールの出口――いわゆるホワイトホール――として機能し、結果としておまえがこちらの宇宙へ来た」
「……そういうことになると思います」
 シニストラが応じる。
 少し離れた奥では、こちらの宇宙・・・・・・のシニストラが、時折2人の方を振り返りながら紅茶を淹れていた。
「起こりうる事象は全て成立し、発生しうる未来は全て別個の宇宙となって分岐する。……多世界解釈の正しさをこういう形で確認することになるとは思いも寄らなかったな」
 黙って頷き、同意の意を示す。
「『ショッパー』との取引の形跡があったことにもう少し注意すべきだったか……」
 デクステラが独言ひとりごとのように小さく呟いた。


 爆縮魚雷。
 今回のブラックホール蒸発の誘引だった。
 犯罪組織間で闇のうちに取引されたらしいそれが、追い詰められて血迷った敵艦隊からGOTT旗艦の自分たちの艦センチュリオンへ向けて発射された時には流石に不意を打たれて驚いたものの、避けるには造作もなかった。
 艦を掠めて通り過ぎた魚雷が虚空の宇宙空間で爆発する。大量の重力子を放出し、極小の太陽となった輝きは宇宙空間の希薄なガスをその強大な重力で引き寄せた。急激に変動した重力分布が光速の衝撃波となって、センチュリオンの艦体を小さく揺らし、それからさらに波紋のように広がって敵味方双方の艦隊へわずかな振動を与える。
 切り札と見えたものがあからさまに無力化され、動揺した敵艦隊が一気に総崩れになるのが遠目からでもよく見えた。
 勝負あった、と気を緩めた次の瞬間だった。

 最初に感じたのはその異様な感触。まるで悪魔の気配のように暗く、重く。
 それが一瞬後には巨大な牙を剥いた、ように視えた。肉眼では捉えられない大量の光子がセンチュリオンの機体と2人の身体を突き抜けてゆく。

(……ブラックホール!)

 すでに敵味方双方の艦隊が集結し、臨戦態勢に入っていたために、充分には行われなかった事前の宙域調査。
 その宙域に漆黒の虚無として身を潜めていた矮小ブラックホール。質量は小惑星ほどだったのだろうか。
 付近一帯の星間ガスが爆縮魚雷に引きずり込まれて希薄になったために、近傍にあったそのブラックホールの周辺温度が極端に低下した。それがブラックホールの蒸発の引き金になったのだった。
 一度蒸発が開始すれば過程は加速度的に進み、最後にはその質量全てを爆発的な熱エネルギーとして放出し、ブラックホールは消滅する。
 地球の歴史、かつての西暦AD時代には、わずか一握りの原子核の質量エネルギーが都市を丸ごと吹き飛ばした。
 小惑星程度の質量が同様に全てエネルギーとなって解放されれば、周辺宙域の艦隊を彼我の区別なく壊滅させるに充分だった。

「全艦隊、全速で退避せよ! ブラックホールの蒸発開始を確認!」
 無指向性、全方位通信で敵味方双方に向けてそう叫んだのは―――




「それより以前の時点では、話を聞く限りそちらとこちらの宇宙で差異は無かったようだし……向こうの宇宙でおまえが、こちらの宇宙で俺が警告を発した―――ふたつの平行世界が分岐したのはその時か?」
「……おそらくは」
 異なる宇宙の片割れ同士が検討を重ねる。
 磁器の触れ合う軽い音が背後で鳴った。
「……しかし、それも妙だな」
「何かありましたか?」
 紅茶を運んでちょうど傍らに立ったこちらの世界のシニストラが、緋色の髪のパートナーの発した疑問を捉える。
「俺の能力エニウェアとおまえ達の能力ウェネヴァ、本質は同じでも、空間の感知能力にはやはり俺の方に分がある。そちらの世界の俺は、どうしておまえよりブラックホールの存在に気づくのが遅れた?」
 そう言って、異なる世界のパートナーへ目を向ける。
「それもそうですね。……何か心当たりは?」
 卓の上にカップを置きながら、双子以上に似通った容貌の一方がもう一方へと尋ねた。
 二人の間に相違するものは殆ど何も無い、ただ何処どこ如何どうとも言葉にすることが出来ない程の僅かな波動の違いをお互いに感じてはいた。
 自分でありながら異なる宇宙の存在とは、そのようなものであるらしかった。
 ソファに座ったもう一方は視線を伏せたまま一方の問いに応じる。
「発生する可能性のある未来ならば全て発生し、それぞれ別々の世界となって分岐する―――多世界解釈ではそういうことになっています。俺が先に気付く可能性もあった、そして俺の世界ではその選択肢の未来へと事象が収縮した……そういうことでは?」
「そうだとしても、それは可能性として考えにくい選択肢だ。世界が分岐した後、矮小ブラックホールひとつ程度でワームホールが通じるほどこちらの世界に近いとは思えない」
「……………」
「何か、もっと……紙一重の差でこちらの世界と分岐した時点があるような気がする」
「…紙一重、ですか………」
 ティーカップを配り終えたこちらの世界のシニストラの言葉を最後に、場は一時沈黙した。


 ――そんなことがあるのだろうか。

 異宇宙のシニストラは脳裏で考える。

 振り返っても。
 全てがこれ以上は無いほどの必然だった気がする。
 紙一重の選択、などとは程遠く。

 蒸発したブラックホール、蒸発しなかったブラックホール。
 放たれた弾軌。解放された重力波。
 止められなかった争い。大局的ユニバーサルな、そして局地的ローカルな。
 紡がれなかった過去。視えない未来。
 割れたティーカップ。
 割れた―――


「……二つの世界が分岐した時点を特定出来れば、再度ワームホールを開く時の重要な資料データになる。いずれにせよ、おまえを元の世界に帰すための方策を考――――どうした?」
 一点を凝視する別宇宙のシニストラにデクステラが声を掛けた。
「…………割れてしまったんです」
「割れた?」
「このカップ……俺の世界では」
 3人の視線が集中した先には優雅な曲線の磁器。琥珀色の液面から立ち昇る白い湯気がくるりとフラクタルの渦を巻いた。
 ひゅ、とデクステラが息を飲む微かな音がした。
「昨夜、俺の家に行ったか? シニストラ」
 心当たった風のデクステラが別宇宙のシニストラに問い掛けた。
「行きました」
「何があった?」
「…何が、とは?」
 カップの上へと伏せたままだった視線を、ほんの少しだけ紅い髪の持ち主の方へ流す。
「俺と会って、それからどうなった?」
「……別に何も。すぐに帰りました」
 視線を外して応じる。
「俺から帰れと言われて、帰った。そうだな?」
「そうなんですか?」
 黙って成り行きを聞いていたこちらの宇宙のシニストラが、思わずといった声音の問を挟んだ。
「……………」
 テーブルの上へ再び目を遣った異宇宙のシニストラの静かな沈黙は、雄弁に肯定の意を返す。
 大きく息を吐いて、デクステラはゆっくりとソファに背もたれた。
「判った。それだ。合点がいった」
 デクステラの言葉に、2人のシニストラはそちらを見、共に沈黙した。僅かずつ異なるニュアンスで。
「…となれば、残る問題はおまえをどうやって元の宇宙に返すかだな」
「………やはり、今回の例と同じようにブラックホールの人工的な蒸発に乗じるべきですかね?」
 紅い髪の司令官の言葉に応じたのは、本来のパートナーである方のシニストラだった。言葉の端に、尋ねる事をあえて控えた疑問の余韻を漂わせて。
「おそらくそういう事になるだろうが、難題がいくつかあるな。今回と同じように爆縮魚雷を使うとしても、俺たちESメンバーの権限では容易に使用許可が下りるものではないし、一番の問題は」
「問題は?」
「こちらと向こうの宇宙でブラックホールの蒸発するタイミングを合わせなければならないことだ。こちらでワームホールが開いても、向こうでホワイトホールが開かなければ帰還は不可能だからな。こちらの宇宙でブラックホールを蒸発させるなら、向こうの宇宙でも同じブラックホールを寸分違わず同時に蒸発させる必要がある」
「同じものを同時に。…………」
「……何かを契時トリガーとして。こちらと向こう、一切の情報が遣り取り出来なくとも図り合える何かを」
 パートナーの思考を継いだ形でデクステラがそう纏め終えたのと、部屋のドアがノックされたのはほぼ同時だった。
「どうぞ」
 完璧なユニゾンで応答した2人のシニストラは、一瞬後に目を見合わせて同時に苦笑した。
「失礼します」
 そう断って入ってきたのは、茶髪緑眼のエヴェレット艦長だった。GOTTの戦艦内だが、共同作戦の今後の協議のため、そして今回の事情を知る人物を最小限に抑えるために同乗してもらっている。
 瓜二つの2人のシニストラを再度目にして困惑の表情がよぎるものの、素早く平静に戻り3人へ向けて敬礼の体勢を取った。
「何か異変が?」
 デクステラの言葉に、片手の電子ペーパーを確認しながら報告を告げる。
「ご指示通り改めて付近の宙域調査を実施していたのですが、ここから約147天文単位の位置に別の極小ブラックホールがあることが判明しまして、……」
「……それだけで報告の必要性ありと貴官が判断した訳ではないようだが。何かあるのか?」
「お察しの通りです。実は爆縮魚雷によって発生した星間ガス希薄領域が同心円状に周辺宙域へ拡大しているのですが、この領域が問題の極小ブラックホール周辺へ到達した際に再びブラックホールの蒸発現象が生じるとの試算が出たのです」
 無言の驚愕、一瞬の沈黙。
「それだ」
 同時に声を発したのはこの世界の真紅と蒼銀の髪のパートナーだった。

 異世界のシニストラは、沈黙を重ねたままだった。



(それだ)

 綺麗に重なった自分でない自分の声と、自分のパートナーでないパートナーの声を聞いて。
 やっぱり駄目だ、と思った。

(蒸発開始までの推定残時間は?)
(おおよそ13時間と20分ほどです)

 そんな会話を、他人事のように聞いていた。



 直視窓からその場所を見ても、肉眼で確認できる特徴は一切無い。ただの変哲ない宇宙空間だ。
 超新星爆発で生じる通常の主系列星恒星レベルのブラックホールならば、周辺のガスが吸い込まれてゆく軌跡の降着円盤や重力レンズ効果、質量相応の万有引力の気配が見られるが、惑星にも満たない質量しか持たない極小ブラックホールではそのいずれもを機器無しで確認することは出来ない。
 一説によると、極小ブラックホールはビッグバンの名残であるという。
「心の準備………か?」
 同質の存在に対して丁寧語を使うべきか悩んだらしい間を中に挟み、自分と同じ響きの声が背後から聞こえてきた。
 声を掛けられる前から気付いていた気配だが、一応そちらを振り返る。
 自分と同じ顔、自分と同じ声、自分と同じ色の髪、自分と同じ速さの歩み。鏡では見られない、左右反転でなく自分と正対する表情。そして波動。
 それを違和感と呼ぶべきか、調和感と呼ぶべきか、異世界のシニストラには決め難かった。
「心はもう決まっているつもりだ。………だから頼みがある」
 窓の外の漆黒の宇宙空間へ再び振り返りながらそう答える。
 相手の理解を待つ一息を置き、それから言葉を続けた。
「この世界に留まる訳にはいかないだろうか。……お前達に手を煩わせない何処かで。」
 問い掛けた側のシニストラの表情が軽い驚きに変わる。
 薄く開かれ、何だって、とおそらくは言おうとしたであろう口は、だがややあってから結局別の問いを発した。
「……何があった?」
 あの時に。彼の家を訪ね、向こうの宇宙とこちらの宇宙、ひとつだったものがふたつに分かたれたあの瞬間に。それは問わずとも、問われずとも互いに理解できた。
「…同じ事を聞くんだな。彼と。」
 苦笑しながら再び相手の方を見遣る。相対するもう一方のシニストラの目は真剣そのものだ。
 その揺ぎ無い真摯な眼差しを、羨ましい、と思う。

 あの瞬間に、自分たちとは異なる未来を選択した彼ら。
 そこに何があったのかは判らなくても、今の彼らを見れば明白だ。言葉を交わさなくても通じ合う心、完璧に調和する思考。彼らも自分たちと同じように、ここ最近のパートナー間の齟齬を抱えていたはずなのに。
 あの時に、有り得るべき、望ましい解決を見たのだろう、彼らは。もはや迷いも戸惑いもなく、真っ直ぐに同じ方向を見据えてパートナーと共に歩んでいる。
 僅か数十時間前まで同一だった存在は、今やこんなにも自分と正反対の未来を向いていた。

「さっきそちらのパートナーに言った通りだよ。デクステラの家を訪ねて、帰るように言われて、帰った。それだけだ。」
「じゃあ別の聞き方をしよう。…何を思った?」
 淡々と綴った答に鋭く切り返されて、薄い笑みが完全に消える。痛いところを突かれたな、と考えて、目の前の存在が他人でありながらやはり自分と同質のものであることを思い知った。
 合わせていた視線を外し、俯く。そうしてあの時の出来事を反芻する。
 小さく溜息をき、目を閉じた。
「人というものは、……こんなにも、他の誰かを憎めるものかと…。」
「…………………」
 返された答を、もう一人のシニストラは沈黙で受け止めた。



 撥ねのけられた腕から落ちた手提げ籠バスケットの中でカップが割れた高い音、それも遥か遠くの出来事のように微かにしか聴こえなかった。
 目の前の彼の、その様相に意識の全てが捉われていたから。
 普段は熱い血がその奥に透けて見えそうな両の紫の瞳が、氷点下に凍り付いて自分を見据えている。
「―――帰れ」
 その表情だけで。その言葉だけで。
 後はもう、何も問う必要など無かった。
「……わかりました」
 落ちた手提げ籠を拾って、彼に背を向け、開いたドアから外へと足を踏み出した。籠の中で鳴ったカップの音は、きしり、と、似ても似つかぬ無様な音に変わっていた。
 背後でドアの閉じた気配を聴きながら、淡々と歩みを重ねた。それが徐々に遅くなり、やがて小刻みな震えへと取って代わられていく。
 突き付けられた事実に、視界がホワイトアウトしていった。

 翻された彼の手。あの彼の瞳。そして彼の全身から立ち昇る、怒気にも似たその低く重く、暗い気配。
 これまでに何度となく敵へ向けられてきたそれが、これまでに見たことのない激しさを以って自分に向けられる日が来ようとは―――

 バスケットが手から滑り落ち、両腕を抱えて身震いした。

 どこで自分は道を誤ったのか。わからなかった。
 嫌と言うほど思い知らされた事実をただ受け入れるしかなかった。

 自分がデクステラにとって、この世で最も憎悪すべき、永遠に赦されざる存在になったのだということを。



「……だからブラックホールへ飛び込むのに、何の躊躇もなかったよ。
 彼の役に立ち、俺は消える。最良の選択だったはずだ。……こんな所へ出てくるとは思いもしなかったけどね。」
「……………………」
 時空の特異点に押し潰されて一切が終わりになる、それで良かったのに。自分がこちらの宇宙へ飛び出してきたこの異常事態は、向こうの宇宙で多少なりとも観測されているはずだ。特にデクステラには判らない訳が無いだろう、と、何の感情もなく単純にそう思う。
 道をたがえ、世界すら隔たれた今でも、デクステラの実力に対する絶大な信頼は一片の揺るぎもない。
 ブラックホールの蒸発が再度起こると知れれば、向こうの宇宙でもGOTTが自分の帰還を想定して準備を整えるだろう。デクステラが自分の帰還を望んでいなくても、対外的には難しいところがあるのではないだろうか。
 残された唯一の復路切符であろう、蒸発ブラックホールへの再突入。それを自ら放棄することが、今この時の――否、彼にとっての、自分が採るべき道のように思われた。

 沈黙が2人のシニストラの間を支配した。
 もう一方の自分にも状況は理解されたはずだ。あとは許可が出るかどうかだけ。

 暫くの沈黙を重ねてから、もう一方のシニストラが口にした言葉は、他方のシニストラを驚かせるに十分だった。
「…………あちらのデクステラのことを考えろ」
 言葉の意味が浸透するまでに時間がかかった。顔を上げ、もう一人の自分を見る。だかどれだけ時間をかけても、その真剣な表情から発せられた言葉の真意とするところが解らなかった。
 誰よりもあのデクステラの事を考えているのは自分だと、口に出さずともそう自負して、だからこそ決断した選択だと思っているのに。
「お前には、そんなことはないと、考え違いだから向こうの宇宙に帰れと、そう俺たちが言ってやれる。でも」
 静かな表情でこちらの宇宙のシニストラが言葉を続けた。俺たち、それがこちらの宇宙のシニストラ自身とデクステラを指す事、そう理解できるのが羨ましかった。
「向こうのデクステラはたった独り、誰の支えも無く、あらゆる負の未来の可能性と戦いながら、お前が還って来るための準備を整えてる。」
「――――――」

 そうだろうか。にわかには信じ難い言葉だった。どの可能性を探っても、向こうの宇宙の彼が今そんな様子であるとは考えられなかった。
 思いも寄らない可能性を提示する、自信に満ちたもう一人の自分から視線を外し、窓の外に目を遣る。

 この同じ窓から、この不可視のブラックホールの同じ光景を見ている。
 あの凍りついた紫の瞳で。

 いくら諭されても、思い浮かぶのはそんな姿でしかない。
 だからといって、仮にでも納得できる論拠を提示するつもりはないらしい。
 自分でありながら自分でない人も。そしてあの人でありながら、あの人でないこの人も。

「……それをお前に示すのは、向こうの俺であるべきだからな」

 ゆっくり近づいてきた紅髪の気配は、もう一人の自分の傍らまで歩いてくると、背後で距離を置いたままそう静かに語った。

 こちらの彼が言ったそれは、正論のように聞こえなくもないが、要約すればいずれにしろ、つまりは帰れということだ。
 予想はしていたが改めて突き付けられた判断に、窓の外を向いたまま自嘲気味の微笑が浮かぶのはどうしようもなかった。

 語るべき言葉も向けるべき表情も尽きたかと、異宇宙のシニストラが思ったその時、
「向こうの俺がおまえにどうしたかは知ってるよ。……俺が辿るかもしれなかった未来だからな」
 デクステラのその言葉に紛れもない悔恨の色が含まれているのを耳にし、思わず振り向いた。
「だからこそだ」
 捉えられた視線を一筋も外さず、強い気配でそう告げられる。が、次の瞬間、その紫色の視線がふと緩んだ。
「……と言っても、到底信じられないおまえも理解できるよ。だから簡単な証明をしてやる」
「証明?」
 なんとなく場にそぐわない単語のように思えた。
「そうだ」
 そう言うと、パートナーでないパートナーは同じ直視窓の前まで歩いて来る。
「これから蒸発するはずの、あのブラックホール」
 そうしてすぐ真横で、虚無の空間を指差して続ける。何も見えないとは知りながらも、同じく視線を窓の外へ向けた。
「極小ブラックホールと言えど、理論上のブラックホールでない以上は必ず角速度を有する。つまりは自転しているカー・ブラックホールということだ。」
 宇宙を駆ける者にとっては常識の内容に、黙って頷きながらも訝しく思う。
「ブラックホールは円盤状の形状となり、時空の特異点、すなわちワームホールはその円盤上の中心で、ブラックホールの赤道断面において最大径をとる。ワームホールをより確実に通り抜けようとするなら、ブラックホールの北極方向もしくは南極方向から反対極へ向かって垂直に赤道面のワームホールへ突入するのが最も有利だ。……わかるな?」
 人類が発祥した古来の青い惑星の頃からの伝統で、天体はその自転の進行方向を東とみなし、自転を左回りに見る極を北極、右回りに見る極を南極と呼び習わす。宇宙惑星連合GUが管理するワープゲートも原理的には同じく、回転する巨大な円盤の形状を持つ。
 再び頷いたところで、そうして不意を突かれた。
「さて、おまえは北極側、南極側、どちらから突入する? …………向こうのデクステラが、向こうでおまえを迎えるのなら。」

 思わず隣のデクステラへ振り向いた視線は、紫の穏やかな瞳に真っ向から受け止められた。自分の両目が見開かれるのがシニストラ自身にでも判った。
 紫の瞳の中に、今でなく此処でない、運命の波動関数が収束した時のあの彼を見る。

 ”選ぶ道は2つ。”
 ”拒否か、それとも―――――”

 視線は無意識に、再び外の不可視のブラックホールへゆっくりと移る。
 すべての次元を破壊し、そして創造する領域を内包したその天体の境界の向こうに、想像の現在いまの彼を見た。

 もし彼が。あの彼が、凍りついた瞳を溶かし、自分を迎えてくれるのなら。
 自分を拒否したあの腕が、もう一度自分に向かって差し伸べられるなら。
 あの腕が伸ばされるのなら――――

「―――南極側から」
 軽く開いた左の掌の、人差し指を暗い窓へ押し当てた。
「南極側から進入し、ワームホールの先の宇宙の、北極側へ抜けます。………あのデクステラが、向こうで俺を迎えてくれるのなら。」
「そうだな」
 意外なほど至極あっさりとしたその返答に、もはや別宇宙の存在となったかつてのパートナーの方へ振り返る。視線の端には、疑問を漂わせたままのもう一人の自分の姿が映った。
「だからおまえは帰るべきなんだよ。……あのデクステラの元へ。」

 証明。
 確かにそうだった。
 初めてそこで、破顔一笑して彼に応じる。

 他でもなく明らかにされたのは、これほどまでに隔たれてもあの彼を信じたいと思う、己の心だ。
 条件は五分五分のはずの極の進入方向すら、彼がいると思うなら必ずこちらだと断言できるほどに。

 だから帰ろう。彼の有る宇宙へ。
 彼が本当に自分を迎え入れるのなら、必ず目指す極で待っている。
 彼にその気がなければ逆の極に居るだろう。パートナーの助力がなければ再度ブラックホールに引き込まれる公算が高い。そうなれば今度こそ本当に時空の特異点へ押し潰され、当初想定していた通りの虚無になるだけだ。余人には極についての事など永久に計り知れまい。
 どちらになろうとも、もはや迷いも躊躇いも一片たりと存在しなかった。

「帰ります」
 この宇宙に来て初めての晴れやかな笑顔で、シニストラは後に残す2人に向かってそう告げた。




「蒸発まであと1分」
 もう一人の自分の声でのアナウンスに、そろそろか、と立ち上がる。普段はゼフィーロスの格納庫であるセンチュリオン艦首のこの小さな空間は、本来無重力下にある領域だが、センチュリオン自体が今は相当の加速を続けているせいで、自然と艦尾を下にして立つ形になった。
 1天文単位地球−太陽間の数%のこの距離に至ってもなお、通常の感覚では極小ブラックホールの存在を感じられない。頭上を見上げ、間近にある格納庫の隔壁の外部、進行方向の真っ直ぐ先の無限大の歪みを能力ウェネヴァで感知した。
 ブラックホールの質量、温度、情報量ビット数、内包するカラビ−ヤウ多様体の数。能力を用いれば把握するのは手に取るように容易い。
 そこへ進入する未来の自分、その時間、進入方向。ブラックホールの近傍、ましてや超高速での突入には演算不可能なほどの複雑な時間・空間の歪みが発生するが、次元を把握し操作する自分たちの能力はその全てをいとも簡単に処理する。蒸発が極限に達するまさにその瞬間、南極面から真っ直ぐに、極小の領域へ手を伸ばす自分の姿。
 だがその映像も、そこで唐突に途切れる。
 事象の地平面の向こう、カラビ−ヤウ多様体が開いて閉じる異次元の彼方は、自分の未来予知の能力ウェネヴァを持ってしても把握不可能な領域だ。
 周囲はGOTTの所属艦が何隻かあるだけで、あとは穏やかな漆黒と星の煌きの気配に包まれている。
「あと30秒」
 正確に進む通信経路越しの自分の声に、こんな時でありながらちょっとした面白味を覚える。加速を続けるこのセンチュリオン自体が既に光速の数%の速度に達し、静止する周囲よりも遅く引き伸ばされた時を進んでいる。それすらもを考慮に入れた上での精確無比なカウントダウンだ。
 無制限無慣性航行イナーシャルドライブが駆動する気配を感じた。操縦室にいるパートナー2人との永遠の別れも近い。
「よい旅を」
 先程まで何気なく聞いていた低音バリトンの声が、もう遠く懐かしい。
「ありがとうございます」
「………元気で。」
 続いて聞こえてきた自分と同じ声が帯びる躊躇いを、違和感なく受け入れる。自分もこれほどに胸が詰まり、答えるべき言葉を探しあぐねるのだから。
 彼らに出会えて本当に心強かったのだと、今更ながらに思い至った。
「……ありがとう。」
 心からの感謝、それだけは確かだった。
 完全なる帰還を不思議なほどに確信しているらしいのはデクステラだけで、自分ももう一人の自分もそこまでの確証は持てていない。それでももう迷いはない。
 センチュリオンがユニコーンα・βに分裂すると同時に、格納庫の隔壁が開き、蒸発寸前のブラックホールへ突入する。
「……幸せに。」
 臨界時間の直前、無意識の言葉が口を突いて出た。
 稼動音と共に漆黒の宇宙への扉は開け、最後の言葉を2人のパートナーに伝えた空気は真空へと霧散した。



 片割れになったユニコーンβの操縦席で回避行動を取りながら、残された宇宙のシニストラはブラックホールの方角へ固定したスクリーン上、自分と同じ姿の軌跡を追った。加速を続ける相手と急減速している自分たちは、言葉通りの別々の時間をもはや刻み始めている。
 既に星間ガスの希薄領域はブラックホールへ達し、蒸発の一過程としてのホーキング輻射が加速度的に進んでいた。蒸発の進行を伝えるGOTT戦艦内のオペレーターの声の変化がせわしい。
 スクリーン上の姿はブラックホールの重力へ向け、回転するその天体の真っ直ぐに南極面から加速を続けた。ブラックホールの自転に引きずられ、右回りに飛跡が変化したか、と思った瞬間、急激にその姿が薄れていく。
 光景という情報を届ける光子自体がブラックホールの重力圏に囚われ、こちらまで届かなくなったためだ。
 程なくして、加速中だった目に見えない大量の放射が唐突に途切れ、耳には聞こえない僅かな残響の後、再びの果てしない静けさが戻った。質量とエネルギーがブラックホールの特異点内へ消え、蒸発が止まった証だった。
 希薄領域が機体を通り過ぎ、モニターの数値を僅かに変動させ、更なる宇宙の果てに向かって拡散していった。
「………ホーキング輻射、検出限界値以下に戻りました…」
 心許ないオペレーターの声が微かに聞こえた。

 シニストラは静止したユニコーンβの操縦桿から手を離し、背後へ凭れた。
 身体の緊張はようやく解けるが、脳裏はまだ過負荷が続いている。

 こちらの宇宙側での出来としては100%、完璧であっただろう。
 だがそれは、彼の向こうの宇宙への帰還を保証するものではない。
 突入速度は。その時間は。向こうで予想される脱出速度は、時間は。…方角は。カラビ−ヤウ多様体の展開は、反転フリップは。
 普通の人間では到底不可能な演算を何度も繰り返していた、その途中、
「大丈夫だ」
 明らかに割って入る形で、ブラックホールを挟んだ対称位置、ユニコーンαからの、通信機を介したパートナーの声が届く。
 確信に満ちたその言葉に、ゆっくりと目を閉じて思考を解放し、パートナーの気配に身を預けた。




 ワームホールを通る旅はこれで2度目になる。
 とはいえ、最初の経験はワームホールを通ることなど思いもせず、時空の特異点にただ瞬間的に押し潰されるだけだと考えていた時の事だ。
 訳も判らず意図もせず異宇宙へ開いた多次元の通路へ飲み込まれ、状況を把握する暇も苦痛を感じる暇もなかった。その分身体には歪みが起きたと見え、次元の移動後に意識を失う羽目になったわけだが。
 今回はそういう訳にはいかない。圧壊しようとする重力に抗し、己の力で次元を割り裂き、確実に元の宇宙に戻らなければならないのだ。針の穴を通ろうとするような話である。
 既にブラックホールの重力圏内に入り、更なる加速が加えられると共に、ブラックホールの自転の粘性の影響を受けて右回りの方向へ引きずられ始めている。
 莫大な潮汐力がかかり、身体が縦方向へ引き裂かれようとするのを常人ならぬ能力で押し留める。人に在らざる超常力を持ってしても凄まじい悪寒と吐き気に襲われる。
 それでも伸ばした左手を真っ直ぐにブラックホールの中心めがけて伸ばし、無限大の重力、すべての光を飲み込む漆黒を見据えた先、唐突にそれは現れた。最初の時にも視た、多次元を司るカラビ−ヤウ多様体。
 通常は余剰の次元が折り畳まれ、変哲のない空間としてあらゆるところに在るその存在が、多次元を展開してその底無しの虚無を露わにする。
 先進する左手が触れた先から腕、身体、爪先まで、己の身体は3次元におけるその実体を失い、解体されていく。

 もはや自分の存在を支えるのは、人でない能力と人であった時の意志だけだ。
 意識だけで形成された指先が必死に経路を手繰る。
 視力など在るはずもなく、景色の見えよう筈もないが、何とか状況を把握しようとするそれすらをも剥ぎ取られるような暴力的な圧力に襲われる。広大な並行多次元宇宙すべての重力と斥力とが自分を千々に引き裂こうとするかのようだ。
 予想はしていたが、その威力は想像を超えていた。

 もはや己は存在しないのか。
 もし存在するとすれば、その自分を構成するものは何だったのだろうか。

(………、…………、…デクステラ。)

 手繰る左手の一粒が外界に触れた、かと思った。

 次の瞬間、多次元よりも激しい力に引き込まれた。


 視界は、漆黒の無限の宇宙の中。数多の星の煌きの中。
 そして実体を取り戻した己の身体は、デクステラの強く抱き竦める腕の中にあった。
 今出てきたばかりのブラックホールが最後の蒸発を終え、莫大な熱量を伴う衝撃波が同心円状に広がるが、事象の中心はもう遥か彼方の遠くに離れ、漂う自分たちをわずかに吹き揺らしただけだった。


「……局長。特務、完了いたしました」
 耳の後ろで彼の低い声が聞こえる。
 近くを飛んでいたゼフィーロスを中継し、エクリプス局長からの返信が間を置かずに届いた。
『お疲れ様でした。ゆっくり休みなさい。』
 次の瞬間、今度はずっと軽い違和感に襲われた。
 瞬間的に光景が切り替わり、宇宙とは質の異なるほの暗い場所に出る。
 それまでの無重力から唐突に身体を支配した、足元に感じる馴染みある重力。覚えのあるナノミストの大気の感触。

(………、ああ)

 デクステラの<エニウェア>で惑星アイネイアースまで戻ってきた、のだと、理解するまでに多少の時間がかかった。

 まだ少し頭が混乱する。ワームホールでばらばらにされた多次元の自分が部分部分に残っているかのようだ。事後処理もGOTT艦隊も、ゼフィーロスも多分センチュリオンも、エクリプス局長への正式な報告さえもあの現場の宇宙に置いてきてしまった。
 デクステラらしくない、と思った所で、自分を強く抱き竦め続けている彼に気付いた。その腕が震えている。
 帰り着いたこの場所は彼の家だった。あの日、自分を永遠に拒絶した。

 この状況はよく判らない。
 受け入れられたのか、それともやはり自分の存在が意に沿わないのか。
 実体を取り戻した両掌を軽く握って確かめると、彼の背に緩く手を添え、無言で促して、ようやく緩んだ腕の中からゆっくり身を離した。
 そうしてデクステラの顔を、紫の瞳を覗き込む。

 やっと目にした彼は、瞳を見開いたままの驚愕の表情で固まっていた。
 震える右手がゆっくり持ち上がり、微かに触れる程度に自分の頬へ添えられる。
「………………………シニストラ?……」
 長い沈黙のあと、掠れる声でただそれだけを聞かれた。

 そこでようやく、安堵した。
 時間をかけて微笑が零れた。

 自分は帰ってきても良かったのだ。

 頬に添えられる手に自分の左手を重ね、微笑って答えた。
「ただいま帰りました。ご迷惑をお掛けしました、……デクステラ。」
 彼の名前が呼べる。この同じ宇宙で。彼の傍らで。
 望みは全て満たされ、それだけで十分だった。


 だがその後のデクステラの反応は、全くの想定外だった。


 驚愕の表情のまま、瞳を見開いたまま、震える腕で再度シニストラを引き寄せる。表情が背後へ消える。
 次第に力をかけて抱き締められ、背に回った掌が戸惑いがちに、存在を確かめるようにぎこちなく動いた。身体がひどく熱い。
 次の瞬間、彼の中で何かが弾けた音を聞いた。
「……う、………っ…」
 小さく聞こえたそれが、最初は何か判らなかった。
「…う、ああ、うああああああああ……!!」
 ありったけの力で抱き竦められ、仰け反った首筋に彼の涙が降った。
「シニストラ…………!!!」

 涙混じりの深い口付けに唇を塞がれた。
 狼狽うろたえる身体を引き倒され組み敷かれ、拘束されて、再度深く重ねられた唇から彼が侵入してくる。続けて与えられる激しい口付けと愛撫との合間に辛うじて息をつくのだけがやっとで、何を問うことも出来ない。
 涙に濡れた両の紫の瞳の中に、自分を喰らい尽くして飲み込もうとさえする怒りにも似た果てしない欲望を見、やっと頭の片隅で符号が合った。
 そうして、その底無しの深さに戦慄を覚える。

 今になって漸く判る。
 このどこまでも深い激情に自分を巻き込むことを、彼は何よりも避けたかったのだと。
 そのためにあの時、彼自身の心と引き換えに、永遠に自分を切り捨てる選択をしたのだと。
 今なら理解できる。
 突き付けられた愛情は、あのブラックホールの重力よりも、多次元よりも激しく、五体が粉々にされそうな強烈な希求力をもって自分を取り込もうとしているのだから。

 朦朧とする意識の中、恐怖と言ってもいい程のそれに身を震わせながら、だが彼がもはや彼の心を顕らかにし、自分を求めようとしてくれるのなら、どの一欠片に至るまでも否やのあろうはずがなかった。
 可能性の別宇宙が分岐する余地もないほどに当然の選択だった。

 高熱の引力に飲み込まれながら、明滅する意識で、覚束ない仕草で、及ぶ限り彼に応えた。




 大きく息を吐いて、シニストラはベッドから気だるく身を起こした。
 視線を落とせば横になったままのデクステラから優しい瞳で見上げられ、緩く微笑って返す。
 この前の最初の時と変わらず激しく、だが今日は同時に繊細に大事に扱われた。

 ”選ぶ道は2つ。”
 ”拒否か、それとも―――――”

 あの日訪れた彼の家の、あの時に抱き竦められ、彼の情熱に飲み込まれて、全くの想定外のその事態に果てしなく恐ろしくも感じながら、彼に応えるのは当然の選択だった。
 もう彼と心をすれ違わせ想い悩む事は永遠にないのだと、眩暈のする至福に身体が震えた。

 そうしてその後、異なる未来へ分かたれた、冷たい瞳の自分と出会った。
 あの自分は――――

「大丈夫だよ」
 パートナーからこの間と同じ台詞を、この間よりも優しい口調で告げられる。
 意識を戻して、横たわったまま柔らかく笑う彼と視線を合わせた。
「ブラックホールへ飛び込みさえしてくれれば、向こうのデクステラがあのシニストラを取り逃すはずはない。もう今はあちらの宇宙だよ」
 彼がそう言うならば間違いはないのだろうと思いながら、応えるべき言葉を探しあぐねた。
「本当に、……帰ってくれて良かったよ。…永久にパートナーを失う破目になっていたのは、俺の方だった可能性もあったのだから。」
 目を閉じてデクステラが呟いた。
「……………………」
「あの日。2つの宇宙が分かたれた、あの時。こちらの俺はおまえを求め、向こうの俺はおまえを拒絶した。」
「…はい。」
「だがそんなものは単なる偶然だ。可能性は完全に五分と五分だった。…あの時は、拒絶することがおまえのためだと本気で思っていた。」
「……判ります」
 身体で直接識らされて、今なら理解できる。彼自身さえもその果てしなく深く暗く激しい感情を恐れたのだ。
「俺が正しい選択を、向こうが誤った選択をしたわけじゃない。運命の波動関数が収束した時、こちらの世界に来たのがたまたま俺で、向こうの世界に分かたれたのがたまたまあちらだった。ただそれだけのことだった。」
「そうですね」
「だが向こうの俺は、そうは思わなかっただろう」
「…………」
「互いの心を引き裂きながら徹底的に相手を拒絶し、自分のその行動が元でパートナーを時空の特異点の彼方、次元が隔てる異宇宙へ喪った。いかに狂乱し、弁解し、心を尽くして取り戻そうにももはや一切の情報は届かない。自分の身を千に切り刻めば向こうへ伝わると言われれば、あのデクステラは欠片も躊躇わず実行しただろうよ。」
「………………」
「絶対的な拒絶を突きつけたはずのパートナーが自らの意思で自分の元へ戻ってくる、ただひたすらその可能性を願うしかなかった。……だから俺には、あのシニストラを向こうの宇宙へ返す義務があった。何としてでも。」
「………」
「帰ってくれて、本当に良かったよ。」
 そう結ぶ彼と共に微笑みながら、そういえば残したままにしてあった事を思い出した。
「ひとつだけ、今でも疑問があるんですが」
「何だ?」
「進入方向の極はどうして南極側からだったんですか?」
 デクステラは小さく笑うと、シニストラの左手の手首を取り、その左の掌と彼の右掌とを絡め合わせた。
「わからなかっただろう?」
「わかりませんでした」
「これだよ」
「?」
「俺は右利きで、おまえは左利きだろう?」
「ええ」
「南極側から進入すれば、ブラックホールの自転の粘性によって右方向へ螺旋状に回転する力がかかる。その状態で向こうの宇宙の北極側へ出れば右方向、左回転の、言わば北東方向へ抜けることになるわけだ。」
「はい」
 空いた手で軌跡を描きながら話し続ける彼に、脳裏で情景を想像しながら応じる。
「向こうの俺はおそらくゼフィーロスに騎乗し、ブラックホールの自転…シニストラが出てくる方向に合わせ螺旋を描きながら、北極側の西から東、赤道面とほぼ水平に進入したはずだ。パートナーが出てくるはずのブラックホールの極、事象の地平面をぎりぎりに掠める経路を目指して。」
「はい」
「だからだよ」
「?」
「おまえが北極から出て、俺が西から東方向へ向かう。おまえの左手と俺の右手が一番近いんだよ」
 そう言うと、絡め合わせた指にきしりと力が込められた。
 シニストラは言葉を失って、やがてゆっくり深い微笑を浮かべた。
「………俺も、もっと貴方の心に添うように努力すべきですね」
「これ以上おまえに嵌ると本当に全て投げ出す破目になるから、頼むから止めてくれ」
 思わず笑い出しそうになったシニストラは急激に引き寄せられ、深く唇が重ねられると、ゆっくり導かれて再び力強い身体の下に抱き敷かれた。