■ 濡れひよこ

(あなたは――俺のところに帰ってくるんです)

 ……声で目が覚めたような気がした。
 けれども気の所為だったのかもしれない。

 照明は作業と監視に支障の出ない程度に薄く落とされていて、真暗闇よりもかえって何か静かさを感じさせるそのほの暗さに少し落ち着いた。
 そのわずかな照明の光を吸収し、ほんのりと発光しているように見える白い肌。半円のカーブに沿って流れ落ちる薄青の長い髪。
 殻を掻き抱く両腕。

 俺の入った医療カプセルに覆い被さる、シニストラの姿が目の前にあった。

 俺のカプセルの真横の椅子に座り、上半身はカプセルのガラスの上にうつ伏せている。目を閉じ、表情は安らいでいて、呼吸は規則的だ。眠っているのかもしれない。
 透明なケース越しに、シニストラの両腕が俺の周りに廻されている。届く限りに手を伸ばして、包み込むように。
 その姿は、何かとても大事なものを愛おしむ姿に似ていて――何だか妙に既視感のある光景だ、と、そこまで考えて。

 ああ、孵る卵を温め続ける母鳥のようなのだ、と。
 咄嗟にそう思った。

 孵化を待つ俺が、その殻ごと、シニストラの腕の中で温められている。


 このセブンスゲート研究所に来てから、こうやってカプセルの中に入る羽目になったことなど――液体の充填された密閉空間の中で全身管理をしなければ生命が維持できなくなるほどの事態に陥ったことなど――もう数えるのも馬鹿馬鹿しい位に何度も繰り返してきた。
 けれどそういえば、基礎代謝量を抑えるために低体温で管理されているはずのこの環境の中で、寒いと思ったことが一度もないことに気がつく。
 朦朧と浮上と潜行を繰り返す意識の中で、いつも感じていたのは――安堵感と、暖かさだった。


(あなたは俺のところに帰ってくるんです)
 あのときも。
 無機質に白いばかりの「実験室」の壁と天井と強く白い人工的な灯り、壁に嵌め込まれたガラス越しに監視を続ける複数の冷淡な機械と人間たちの目、――それを背にして、シニストラが俺を覗き込んだ。
 逆光になったその姿に、俺は自分自身の血と肉片で出来た海の中から手を伸ばした。浮いた手をシニストラの手が捉える。
 導かれて頬に押し当てた手は、白い肌にべったりと深紅の血糊を残して。
 それなのに。

 ふんわりと柔らかく微笑ったシニストラは――凄絶に綺麗だった。
 背景の白い壁も人の目も、血も肉も、生も死も、何もかもを圧倒して覆い尽くすほどの輝きで。
 銀河中の美しく貴重な物々を全て集めて凝縮したとしても、この微笑には遥か及ばないと思うほどに。

(あなたは俺のところに帰ってくるんです)
 強要でも、願望でもない、穏やかに澄み切ったその言葉。


 あの微笑は、今、俺の上で眠っている。
 ほの暗い部屋の中で。俺の殻を抱いて。安らかに。


 なぜそんなに優しい顔をする?と。
 いつかカプセルから出たばかりの夢現とした意識で訊いた事があるような気がする。
 俺の快復を待つあいつの顔は、いつも穏やかで優しい。
 それに不満を抱いたわけではなく、むしろいつも在るべき場所へ還る事への安堵感に包まれた、その姿の腕の中で訊いたような気がする。

 逆の立場に、俺がシニストラの還りを待つ立場になった時には、不安と恐怖とで身体も精神も引き千切れそうになるのに。

(あなたは強いから)
 まだ遠い意識の中、暖かい声が耳に流れ込んだ。
(あなたは強いから。必ず帰ってくるから。――だから俺は、あなたの帰ってくる場所を用意して、そして待ってるだけでいいんです。)
 それのどこに疑う余地があるんですか?と言ってシニストラは笑う。
 あなたが俺を待つ時に不安がるのは、俺がまだまだあなたよりずっと弱いからでしょうね、そうも言ってまた笑う。


 そうじゃない。

 信じる強さを持たないのは俺で、信じる強さを持つのはおまえだ。

 おまえがただの一欠片も疑いなく俺を信じる、そのしなやかな強度が。
 俺の存在を、生命を、死の血の海からおまえの所へと引き上げる。
 俺の魂が、おまえを求めて、おまえの元へと立ち返る。

 そうしておまえは、その度ごとにこうやって俺の殻を穏やかに温める。
 早く孵ってこいと。待っているから、と。


 カプセル越しの両腕は、まだ俺の周りに暖かく廻されている。


 肉体的苦痛に精神が耐え切れなくなる?
 生への絶望? 死への羨望? 何もかも手放して、楽になることへの憧憬れ?

 とんでもない。全部お笑い話だ。


 この暖かい腕の中を独占してその中で何度でも生まれ変わる、眩暈のするようなその至福感に勝るものなど、天上天下の何処を探したって有りはしない。


 まだエストランドに所属していた頃も、死ぬような目には何度も遭ったけれど。
 この研究所に来てからは、ただ二人だけで幾度も死線を超えてきて。目覚めればいつも、おまえがそこに在って。
 繰り返す時間の流れのうちに、段々と距離を詰め、近づいてゆく俺たちの関係。

 それを深く考えることは、まだ遠い未来の先でいい。
 急ぐことはない。
 これからもずっとこうやって、遥かな時間をおまえと重ねていくのだから。

 今はもう一度眠りにつこうと、そう思う。
 次に目覚める時は、隔てるもののない暖かさを与えてくれるおまえの腕の中で。
 まだ湿ったままの濡れひよこのような俺の髪を、おまえは優しく梳いてくれるだろうから。


 殻を温めるおまえの姿。伏せた瞼。白い顔。
 うつ伏せたままの、小さな息を紡ぐおまえの唇へ。

 カプセルのガラス越し、自分の唇を押し当てた。


 そうして俺は、目覚めを夢見る卵の眠りの中へと再び沈んでいった。