■ 天に至る門

「俺たちは死なない」
 彼はそう言う。俺は答える。
「ええ、俺たちは死にませんよ」

 短い言葉の中に込められた想いは、こんなにも遠く、そしてこんなにも傍にある。

 俺のそれは確信だけれども、彼のそれは切実さに満ちた祈りだ。


 振り返って自分の周囲フィールドを確認しようとしたその矢先、背中から叩きつけられた衝撃は一瞬にして爪先指先までをも含む全身にめり込み、瞬間、その巨大な衝撃インパクトそのものが自分の身体であるかのように錯覚したほどだった。
 俺の身体は飽きて捨てられた襤褸人形のように容易く宙に浮き飛んで、完璧に自己の制動を失った手足をどこか他人事のように自覚しつつ、ああ、そういえば自分の分の防御ディフェンスを張るのを忘れていたな、なんて事をぼんやりと考えたりもする。
 彼ひとりを目標として同時に発射された複数の砲撃。高速で彼に迫る、本来は都市の空襲爆撃に使われるその誘導型ミサイルを、たとえ彼であっても生身の今の状態ですべて撃破するのは不可能だと――そう気が付いたのでそちらを先に応戦したら、たまたま自分の身を護る時間が無かった。ただそれだけのことだったのだけれど。
 自分が倒した分を考え合わせれば、残った敵方の手勢に彼が負けることはないだろう。頭の中で軽く計算した結果はそういう結論に至り、俺が内心で安堵したちょうどその時、ようやく長い空中ダイビンクを終えた自分の身体が固い灰色のコンクリートの地面に叩きつけられた。骨が砕けて肉の潰れる鈍い音がする。
 激痛などという言葉では言い表しきれない、全身を襲う生体感覚としての痛みは、しかし却って俺の精神の意識を鮮明にした。決して快いものではないが、何度も経験してもう慣れた感覚だ。
「シニストラ!」
 俺の名を叫ぶ彼の緊張感に張り詰めた低音バリトンは、遠くから響いてくるのに妙に耳元近くではっきりと聴こえる気がする。
 直後、金属の砕け飛び散る爆音が辺り一面に轟いた。ごく少数の者しか知らないであろう、彼が切れた時によくやる無差別攻撃の音だった。
 複数の悲鳴が聴こえる。長く尾を引く、断末魔の。
 敵とは言え、俺がこうならなければ、心根は優しい彼の慈悲に救われるはずの命だったはずだ。俺の不手際の為に悲運を辿った幾つかの生命を悼んだ、そのあたりで俺の意識も朦朧としてきた。
 自分の場合、こうなったところで死にはしないし、死ねない。まるで鋼を鍛えるかの如くに、灼熱に投げ込まれて焼かれ、氷塊で零下にまで冷やされ、重い鉄槌で叩き打ちのめされるようにして、そうして生体増幅機構ヒューマニック・アンプリファイア・システムを遺伝子レベルで組み込まれたこの身体は、そう簡単に死への旅路へ赴くことは出来ないようになってしまっている。
 久しぶりの重症であるのは確かだが、それでもせいぜいが全治一週間というところだろう。
 俺はそれを知っている。今までに何度も繰り返してきたことだ。
 当然、俺の唯一の、そして無二のパートナーである彼もそれを知っている。理性では。けれども――。
 こちらに駆け寄ってきている気配の、だんだんと遠くなる彼の叫び声を聴きながら、大怪我をした自分の履歴の回数に1を加えた。
 第七門セブンスゲート研究所を出てから、73回目だった。
 彼のそれに、まだ15回足りなかった。



『主イエス・キリスト宣り給いて曰く、我は門なり。我を通る者は皆、天に至りて救わるる者なり。』(ヨハネの福音書10-9)



 意識は緩慢に、極めて緩慢に覚醒してきた。暗闇の深海から、ごくゆっくりとゆっくりと浮上して、やがて薄ぼんやりと光が自分の周囲から、徐々に広い範囲を照らし出していくように。
 Cogito ergo sum. 我思う、故に我あり……普通の人間の、普通の覚醒ならばそうなのだろうけど。
 こんな時の俺がいつも、まず一番最初に知覚するのは――彼の意識。彼の能力だ。
 それが触れているその先が、触れてくる対象が自分である、とそこでようやく自分の意識を自覚する。自分の意識を探る、自分の能力に触れてくる彼の気配で自分の現存在を知覚する。……いつもそうだった。
 彼の存在は、深海の中の光のようなもので。それがあって初めて、自分が存在する、自分がこの場に在る、その事を知る。

 彼は俺の横にいる。

 自分の意識が覚醒しつつあって、彼が隣にいるということはつまりあの日から3日か4日くらい。……医療メディカプセルから出てきて数時間というところだろう。何度も繰り返したことだから推測はおおかた外れてはいない。
 耳に当たるシーツの感触は、良く糊が効いていて少し粗い。

 彼は俺の横にいる。気配はする。
 けれども身じろぎ一つせず、音一つ立てない。
 ……俺の身体に触れてくることもしない。

 そうして彼の意識だけは、徐々に覚醒しつつある俺の意識の表面で、固定されたように、ぴったりと付いて離れなかった。

 指一本動かすどころか、瞼さえまだ開かない自分の躯がもどかしい。
 彼を見たいのに。彼の様子を確かめたいのに。
 それは何度も繰り返してきたことで。……たとえ目を開かなくても、俺の横で、彼がどういう姿勢で、どういう表情をしているか、絵に描くように何もかもが見なくても判るのだけれど。

 身体が動かない代わりに、意識の手を伸ばして俺のそれから離れない彼の意識に応えようとする。
 俺の意識の表面で止まったままの、彼の意識を緩慢に押して、呼びかけるように。
 実際の身体の動きを必要としないそれすらも、まるで惑星を動かそうとするような甚大な努力が必要で、歯を食いしばるようにして自分の能力を操作する。

 彼は気付いている。俺の覚醒に。
 ……けれども身動きひとつしない。
 そうして身体が動かず能力だけで彼に干渉しようとする俺を、感情の伴わない意識の手でやんわりと押し留める。

 再び全身の力と意識を脱力させた俺と、彼との上に、また静寂が降りた。

 ふつりと意識が途切れる。
 気がつけばまた、薄ぼんやりと覚醒している自分を自覚する。
 そうやって意識の浮き沈みを繰り返しながら、意識の世界が徐々に拡大していく。
 それは何度も繰り返してきた事で。いつもの事で。
 まず自分の感覚が少しずつ戻ってくる。指先に触れるシーツの感触。身体の上に感じる毛布の僅かな重み。……三半規管が感じる重力の感覚が、自分の身体の重さとなってベッドに挟まれた背に感じられる。
 記録を取り続ける電子機器の小さなノイズ。呼吸はまだごく浅くでしか繰り返せないけれども、その合間にも病院独特の匂いを感じ取れるようになってきた。

 身体はまだ、指一本も動かせない。

 辛うじて僅かに震える瞼を、抉じ開けるようにして無理矢理開いた。
 けれどもくらくらと頼りなく漂う視界に写るものといえば、平らに白い無機質な天井だけで。

 彼は俺の横にいる。

 首も顔もまだ動かせないから、彼が俺の上に動いてこない限り、彼の姿を見る事は出来ない。
 そしてこんな時の彼は、それをしない。
 ……ただじっと、ベッドの横の椅子に座ったまま、俺を見ている気配がするだけで。俺が目を開いた事はそうやって真横で見て知っているのに、彫像のように硬直したまま動かない。
 それは何度も繰り返してきた事で。
 ……何度も繰り返してきた事なのに。

 じわりと滲みるような恐怖感を伴って、焦る。

 何度も繰り返してきたことだけれど。
 ……今度は。
 今度こそは、彼が――


 感覚の戻り切っていない指に、捩るようにして力を込める。自分の望む一割ほども動いてる気はしないけれど、手元のシーツは微かな音を立てた。
 声を出そうとして、無様な不明瞭な音が俺の喉から漏れた。それすらも弱々しい細いものでしかなくて、情けなくて、辛い。
 気力を搾り出すようなそういう努力は殆ど実際の身体の動きには現れていないのに、呼吸だけは途端に乱れて荒くなる。
 ぜいぜいと喘鳴を立てながら、歯を食いしばり、蠕くようにしてなんとか首を彼の方へ捻った。無理な動きをした所為で視界はしばらくの間暗転する。
 ちかちかと白黒にフラッシュする視界は、やがて窓からの光を――そしてその光を背にする、彼の輪郭を捉えた。
 ブラインドの掛かっている外からの光はごく弱いものでしかないのだろうけれど、それすらも回復したばかりの視力には強すぎて、彼の表情はまだ読み取れない。

 それは何度も繰り返してきた事で。
 彼がどういう表情をしているのか、見なくても、手に取るように分かるのだけれど。

 視界は徐々に、光と影のコントラストを抑えてゆく。
 彼の広い肩が、長い腕が、少しずつ捉えられてゆく。
 緋色の髪が。
 引き結んだ口が。
 端麗な眉が。

 ……紫の瞳が。

 俺を見ている。
 荒い呼吸を繰り返して身を捩る俺を、ただじっと見ている。


 死人のような、無機質な表情で。


 それはいつもの事なのに。
 焦った。辛かった。


 彼は彫像のように硬直したまま。
 無表情なまま。
 髪一本ほどのところで、ぎりぎりのところで、痛いほどに張り詰めている。


 彼に近い方の腕を無理矢理動かしたら、まだ回復しきっていない身体に激痛が走って、思わず漏れた悲鳴も音にすらならなくて。
 けれどもそんな自分に鞭を打つようにして、力を振り絞って動かす腕はのろのろと緩慢に彼に近づいた。

「…………テラ……」


 彼の名前の一部がかろうじて音になる。
 彼はぴくりとも反応しない。
 震えながら持ち上がってゆく俺の腕を支えることもしない。


 張り詰めているのだ。
 その気配だけで、俺までがびりびりと痛いほどに。


 それは何度も繰り返してきた事なのだけれど。

 彼は何日間、こんな状態のまま、俺を見続けていたのだろうか。


 辛かった。
 何よりも大切な彼に、そんな思いをさせた事が。
 自分の身体の痛みより、ずっと。


「……デクステラ………」


 辛かった。
 ただ一秒でも早く、彼に近づきたかった。

 揺れながら伸ばした手が、ようやく、彼の頬に触れた。
 彼の肌は、驚くほど冷たく冷えていて。


 力が持たなくて腕が下がって、俺の指先が彼の頬を滑った、その時。
 彼の紫の瞳が揺れて。
 同時に彼の中で、張り詰めていた何かがぶつりと大きな音を立てて切れた気配がして。

 彼の目から滑り落ちた一筋の涙が、雫になって俺の指先に降った。


「……判ってる。………俺たちは…死なないと。……判ってる。」
「………………」
「………だけど血塗れになって、床の上に転がるお前を見れば……」
 低い低い声が部屋の中に木霊する。
「……今度こそ、お前が死んでしまうのかと思う………」
「……………」
 彼は無機質な表情を変えず、ただ透明な雫をその目から零しながら、微かに震えだした声で独り言のように言葉を紡ぐ。
「………ここに運び込んで。お前が助かると知って。…………だけどカプセルの中の、青白い顔のお前を見れば、…………お前がもう目を覚まさないんじゃないかと思う………」
「………クステラ………」
「カプセルから出てきて、お前の意識が戻れば、俺の事を全部忘れてしまってるんじゃないかと恐くなる……」
「デクス………」
「お前が俺の名を呼べば……っ…、もう俺の事を愛していないんじゃないかと恐怖する………!」
「デクステラ……」

 顔を歪めて、眉根を寄せて、彼が叫んだ。

「俺を置いていくなっ……!」

 痛む身体が何の気使いもなく彼の力強い両腕で乱暴に引き上げられて、必死の思いで縋るようにぎりぎりと痛いまでに彼の腕に抱き竦められて。
 ……彼は啼き出した。俺の首筋に顔を埋めて。声を上げて。
 堰を切ったように。子供のように。




 彼が俺を手に入れた、あの日から。
 俺が彼のものになった、あの時から。
 彼はいつも、………ずっと消えない巨大な恐怖を抱えているのだ。

 俺を無くしてしまう事に対して。

 彼が俺を手に入れた、それ故に生じた、永遠に続く彼の苦業。
 俺の存在が、彼に強いた……苦しみ。



 俺がこうなる度に。
 何度も繰り返してきた事なのに。
 その度に、今度こそ壊れてしまうのではないかと俺が恐れるくらい、彼は恐怖する。俺を無くす事に。
 静かに硬直したまま、張り詰めて、気が狂ったように俺の還りを求める。



 ……なんて哀しくて。
 なんて愚かなのだろう。


「……何処にも、……行けるはずなどないのに…………」

 大声で泣く彼に届くように、力の入らない腕で必死に彼の背に縋って、彼の耳元に口を近づけて、か細くしか出ない声を絞り出す。
 泣き続ける彼の身体が、大きく震えた。


「デクステラ……、……あなたが一緒なら………何処だって、天国ですけれど……」
「……………」
「……あなたがいなければ、……何もない。……何処にも、…地獄にも、…天国にだって、……行けるはずなどないのに………」
「…………………」
「……デクステラ。…あなただけが、……俺の、天に至る門です………。」
「………シニストラ……」


 気力を振り絞るようにして紡いだ言葉で息は乱れて、一度言葉を止めて荒い呼吸を整える。
 彼は震えながら、俺の言葉の続きを待っている。
 彼の恐怖を否定してくれる、その言葉を。

 巧く表情が動かせないから、俺は唇だけで微笑を作った。
 その俺の動きは、頬で触れ合う彼にも伝わったはずだった。


「……愛しています。デクステラ。」


 俺が生きていて
 あなたの横にいて
 あなたを全身で覚えていて
 あなただけを愛している
 それら全てを伝える、その言葉を。


 ベッドの上に乱暴に引き倒された。
 彼の身体が圧し掛かって、乱れたままの呼吸が唇で塞がれる。
 強引に深く絡め合わされる舌は涙混じりの味がした。


 シニストラ
 お前だけが俺の天に至る門
 お前が俺の全て


 泣き声と激しい愛撫に途切れ途切れながら俺に告げる彼の言葉は、もはや単語としての形をすら成していない。
 体力も気力も使い果たして、声もろくに出せず彼の行為にただ翻弄され続ける俺は、朦朧とする意識の中でそれを聴く。


 意識の中に光が見える。
 空を向く扉の向こうから。
 遥か高みに至る、その光。




 あなたが 俺の 天に至る門
 お前が 俺の 天に至る門









 そうやって死ぬほど体力を消耗して、出て来たばかりの集中治療室に逆戻りになるのも、やっぱりいつもの事で。
 事情を知っていて困惑顔の医療スタッフに混じって、ストレッチャーに乗せられ運ばれていく俺の横に付いてくる彼が一番平然としている事に妙に感心したりする。
 スタッフ以外立ち入り禁止の治療室の扉をくぐる寸前、彼の腕がストレッチャーの動きを止めた。
 そうして俺の上に覆い被さり、彼の影が俺の顔に降ってくる。
「……なるべく早く帰ってこいよ」
 そうして容赦なく深く口付けてくるのも、やっぱりいつもの事で。
 狼狽の度を増す周囲の人々の気配を感じ取りながら、俺は内心で苦笑しつつ、やっぱりいつものように彼の長い口付けに応えたのだった。